第21話|地に属する者と天からの者【はじまりに還る路】

小説

第三章 西暦三十年

第一節 春

第三項 地に属する者と天からの者

これらのことの後、イエスとその弟子たちはユダヤ地方を巡っていた。
春の穏やかな風が新緑の丘に吹き渡り、初夏の訪れを感じさせる。

「先生、このあたりでよいのですか。」と弟子の一人が尋ねる。
「ええ、そうしましょう。」とイエスは穏やかに答えた。
ヨハネが川辺を見やり、「水の深さもちょうどいいな。」とアンデレに声をかける。
やがて彼らはそこに滞在し、訪れる人々にバプテスマを授けはじめた――もっとも、実際に施していたのは弟子たちであったが。
「あの人もバプテスマを施しているのだろうか」ヨハネがアンデレに問う。「そうだな・・・」二人はかつて洗礼者ヨハネの弟子だった頃に思いを馳せた。

一方そのころ、洗礼者ヨハネは、サリムに近いアイノンでバプテスマを施していた。
イエスにバプテスマを授けたヨルダンの向こう側のベタニヤから、川に沿って北へ五十キロメートルほど進んだ、水の豊かな地域である。
そこに人々が次々にやって来ては、彼のもとでバプテスマを受けていた。
――まだこの時、ヨハネは捕らえられてはいなかった。

さて、このころ、洗礼者ヨハネの弟子たちは、清めのことをめぐって、あるユダヤ人と議論になった。
人を清くするのは、これまでユダヤ人が行ってきた洗いの儀式なのか、それとも、あのバプテスマなのか──。
しかも今や、人々はヨハネのもとへ行くか、イエスのところへ行くか――その移りゆく流れが、うっすらと見え始めている。
彼らは洗礼者ヨハネのもとに来て言った。
「ラビ、あなたがヨルダンの向こうで『この方だ』と示していたあの人が、いまバプテスマを施していて、みんな、あの人のところへ行っています。」

洗礼者ヨハネは静かに答えた。
「人は、天から与えられていなければ、何一つ受け取ることはできません。あなたがた自身がよく知っているはずです。私がこう言っていたことを——『私はメシア〈מָשִׁיחַ〉ではない。あの方の前に遣わされた者だ』と。
花嫁を迎えるのは花婿です。その友人は、そばに立って花婿の声を聞き、その声を聞くだけで喜びにあふれるのです。」

弟子たちは顔を見合わせた。――花婿とはあの人のことか。では花嫁は、人々のこと……。
――つまり、人々はあの方のもとへ行くのが当然ということか・・・。

洗礼者ヨハネは続けた。「だから、この私の喜びはすでに満たされています。あの方はますます大きくならなければならない。そして私は、小さくなっていくのです。」

後に、このやり取りについて、洗礼者ヨハネの弟子たちから聞き及んだ使徒ヨハネは、晩年この出来事を回想しつつ、イエスについてこう書き残している。

上から来られた方は、すべてのものの上におられる。
地に属する者は、どこまでいっても地の理解の中でしか語ることができない。

あの方は天から来られた方であり、そこで見聞きしたことを、そのまま語っておられた。しかし人々は、その言葉を前にしてもなお、それを受け入れようとはしなかった。

あの方の語ることを受け入れた者は、それによって、神〈ὁ θεὸς〉が真実であることを確かなものとして受け入れている。
なぜなら、神〈ὁ θεὸς〉が遣わしたその方は、神〈τοῦ θεοῦ〉の言葉をそのまま語っておられるからであり、神は、その方にご自身の霊を、制限なく与えておられるからである。

父は子を愛し、すべてのものをその手に委ねておられる。
子を信じる者は、永遠のいのちを持っている。
しかし、子を受け入れようとしない者は、いのちを見ることがなく、むしろ神〈ἡ τοῦ θεοῦ〉の怒りがその上にとどまっている。

※脚注※清めに関する論争について
当時のユダヤ人は、律法(とくにレビ記など)に基づき、汚れを清めるために水で身を洗う儀式を繰り返し行っていた。これは祭儀的な清さを回復するためのものであった。一方、ヨハネ(およびイエスの弟子たち)が行っていたバプテスマは、罪の悔い改めと結びついた象徴的行為として受け取られ、従来の清めの理解との違いが議論を呼んだものと思われる。

挿絵・ビジュアル制作には、ChatGPT および Google Gemini を使用しています。

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