ふと昔、猫の雑誌で読んだ一文を思い出した。
「猫は、神様が人間に“無私の愛”を教えるために与えた存在である」
正確な出典はもう思い出せない。けれど、その言葉だけは妙に心に残っている。
当時は「ちょっと大げさだな」と思った気もする。
でも今なら、あながち間違っていないのではないかと思う。
猫という生き物は、驚くほど気まぐれだ。
呼んでも来ないし、来たと思ったらすぐどこかへ行く。
甘えてくるかと思えば、突然そっけなくなる。
正直に言えば、かなり“わがまま”な生き物だ。
それなのに、なぜか人は猫に愛情を注いでしまう。
世話をし、時間を使い、時には振り回されながらも、なお「かわいい」と感じてしまう。
しかも、その愛情は見返りを前提としていないことが多い。
「これだけ世話したんだから、もっと懐いてほしい」とは、あまり思わない。
むしろ、ただそこにいてくれるだけでいいと思ってしまう。
ある意味でそれは、見返りを求めない愛――
いわゆる「無私の愛」に近いものなのかもしれない。
もちろん、完全に無償というわけではない。
猫がそばにいることで、癒されたり、心が満たされたりする。
けれど、それは“報酬”というより、存在そのものがもたらす恵みのようなものだ。
だからこそ、最初に読んだあの言葉――
「猫は無私の愛を教えるために与えられた」という表現は、意外と的を射ている気がする。
では、聖書で語られる「無私の愛」とは、どのようなものだろうか。
新約聖書でよく使われるギリシャ語の一つに、「アガペー(ἀγάπη)」という言葉がある。
これは単なる感情的な愛ではなく、相手の価値や行動に関係なく与えられる愛を指す。
たとえば、好意や魅力に引かれて生まれる愛とは違い、
相手がどうであっても、なお与え続ける意思の愛である。
他にもギリシャ語にはいくつかの「愛」を表す言葉がある。
友情に近い愛(フィリア)、
本能的・家族的な愛(ストルゲー)、
そして男女の情愛(エロース)。
けれどアガペーは、それらとは少し性質が異なる。
アガペーは「条件を超えて与えられる愛」であると同時に、「感情に左右されず、意志によって相手の益を選び取る愛」なのだ。
つまり、好きだから愛するのではなく、「たとえ好ましく思えなくても、それでも善を行う」と決断する性質を兼ね備えているのだ。
この点で、自然に湧き上がる感情に近いフィリアやエロースとは異なり、アガペーはむしろ倫理的・主体的な愛であり、特に新約聖書では、敵をも愛するよう求められているが、ここで用いられている愛がアガペーである。
人間同士でこれを実践するのは、正直かなり難しい。
だからこそ、猫のような存在を通して、
私たちはその“入り口”に触れているのかもしれない。
わがままで、気まぐれで、思い通りにならない。
それでも、ただ存在しているというだけで愛おしい。
そんな経験が、「無私の愛」というものを、どこか感覚的に理解させてくれる。
もし本当に、そういう意図があってこの生き物が与えられたのだとしたら――
神様、なかなか粋なことをする。
そして今日もまた、こちらの都合などお構いなしに、
猫は好きな場所で丸くなっている。
それを見ながら、こちらは勝手に満たされている。
……やっぱり、少し不思議だ。
神様、ありがとう。


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