第三章 西暦三十年
第二節 秋
第二項 内から湧く泉~真の命へ
場所 サマリアのスカル/井戸
わたしは、彼らのために、
彼らの兄弟たちの中から、あなたのような一人の預言者を起こす。
そして、わたしは彼の口にわたしの言葉を置く。
彼は、わたしが彼に命じるすべてのことを、彼らに語るであろう。
〜申命記十八章十八節~
そのようなわけで、イエスと弟子たちはユダヤの地を離れ、ガリラヤ地方に行くことにした。
ヨルダン渓谷の空気は冷えきっていて、息が白くなる。まだ日が昇りきらない薄青い空の下、イエスと弟子たちは静かに歩き出した。
「さすがに朝は、冬の気配だな。空気がすっかり冷たくなった。」ペテロが肩をすくめた。
「このルートだとずっと登り道だ。すぐ温まるさ。」フィリポが前を見やる。
ユダヤ地方からガリラヤ地方へ向かう途上、その道は、サマリアを通ることになっていた。
サマリアまでは、およそ二十五キロ。谷から山地へと続く骨の折れる上り道だ。
「なあ、本当にサマリアを通るのか?。」ヨハネが少し声を潜めて言う。
「遠回りしてヨルダンの東を回る手もあるだろ。」ナタナエルも同意するように頷いた。
弟子たちの間に、わずかなためらいが流れる。
イエスは足を止めずに言った。
「ええ、この道を行きます。サマリアを通りますよ。」
「……だよなあ。」ペテロが小さく息をついた。
「俺たち、あんまり歓迎されないぞ、あいつらに。」ヨハネがぼそっと言う。
「ま、お互い様だろ。」ナタナエルが肩をすくめた。
「ユダヤ人だって、サマリア人とは関わりたがらないしな。」
そうこうしているうちに、日も高く昇り、朝の冷えはすっかり消え、長く続く上り坂に汗ばむ暑さとなった。
「あのあたりから、もうサマリアの地だ。」前方の丘陵を指しながら、ペテロが声をあげる。
「いよいよか……。」アンデレが静かに周囲を見回した。
「サマリア人ってさ、イスラエルの十部族の連中と、外から来た連中の混血だろ?。」ヨハネが少し眉をひそめる。
「ああ。昔、アッシリアに征服されたあとに人が混じったって話だな。」フィリポが淡々と補足する。「それで、今のあの連中になった。」
「ユダヤとガリラヤの間のけっこう広い地域に住んでるけどさ……正直、俺たちとはだいぶ違うよな。」ペテロが肩をすくめた。
「違う、っていうか……受け入れられないだろ、あの信仰は。」ヨハネが言葉を強める。「モーセの律法だけで、それ以外は認めないなんて。」
「預言者も詩篇も退けるんだからな。」フィリポが頷く。
「エルサレムの神殿も無視だしよ。」ヨハネが鼻で笑った。
しばらく進むと、遠くにうっすらと山が見えてきた。
「その代わりが、あの山か。」ナタナエルが目を細め指を指す。
「あれが、ゲリジム山だ。」フィリポが言った。
「神殿はもうないって聞いたけど、それでもあそこに集まるらしいぜ。」ペテロが続ける。
「同じ神を信じてるはずなのに……ずいぶん違うものだな。」アンデレがぽつりとつぶやいた。
イエスはその会話を静かに聞いていたが、ふと振り返る。
「彼らもまた、メシアを待っている人たちです。」
少し間をおいて、穏やかに続けた。「あなたがたと同じように。」
弟子たちは顔を見合わせたが、誰も何も言わなかった。
やがて道は傾斜を増し始める。石の多い坂道が続き、足取りは自然と重くなる。
「きついな……これ。」ペテロが息を切らした。
一行がサマリアのスカルという町に着いたのは、ちょうど昼の十二時ごろだった。
乾いた風が丘を渡り、太陽は高く、影は短い。
旅の疲れをにじませ、イエスは井戸のそばに腰を下ろして休まれた。
弟子たちはイエスをそこに残し、自分たちは町へ食料を買いに出かけた。
ここスカルは、かつてヤコブが息子のヨセフに与えた野原の近くで、実際、この井戸はヤコブの井戸であった。
やがて一人の女性が、水がめを携えて井戸へやって来た。足取りは慣れているが、どこか人目を避けるようでもあった。
イエスは、その女性に声をかけた。
「水を飲ませてください。」
女性は顔を上げ、驚いたようにイエスを見た。しばらくためらったのち、慎重に口を開いた。
「……どうして、わたしにそんなことをおっしゃるのですか。あなたはユダヤの方で、わたしはサマリアの女ですのに。」その言葉には戸惑いと、わずかな警戒がにじんでいた。衣服と風貌からして、話しかけてきた相手がユダヤ人であることはすぐに分かる。しかし、当時、ユダヤ人はサマリア人と関わりを持たないのが常であった。
イエスは穏やかに答えた。
「もしあなたが神の無償の贈り物を知っていて、また『水を飲ませてください』とあなたに言っている者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうからその人に求めていたことでしょう。そうすれば、その人はあなたに生ける水を与えたはずです。」
乾いた風が吹き抜け、井戸の深みからはひんやりとした気配が立ちのぼる。女性は井戸を見下ろし、その言葉の意味を測りかねていた。やがて顔を上げ、イエスを見据えた。
「あなた様は……まさか、わたしたちの父ヤコブよりも偉大だとおっしゃるのですか。
この井戸は、その方が私たちに与えてくださったものです。ご自身も、その子孫も、家畜までもが、ここから水を得てきたのです。」
イエスは静かに言った。
「この水から飲むすべての人は、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む人は、決して永遠に渇くことはありません。
むしろ、わたしが与える水は、その人の内で、永遠の命へと湧き上がる泉となります。」
女は眉をひそめ、その言葉の意味を探るようにイエスを見つめた。やがて、少し身を乗り出し、控えめに言う。
「……すみません、その水をわたしにくださいませんか。そうすれば、もう渇くこともなく、ここまで水をくみに来ることもなくなります。」
イエスは女性の奥を見通すように言った。「行って、あなたの夫を呼んできなさい。」
女性は一瞬言葉に詰まり、視線を落とした。「……わたしには、夫はいません。」
イエスはうなずいた。
「『夫はいません』と言ったのは、そのとおりです。あなたには五人の夫がいましたが、今いっしょにいる人は夫ではありません。あなたは真実を語りました。」
女ははっとして顔を上げる。その目に、驚きと畏れが入り混じる。
「……あなた様は、あの預言者ではないのでしょうか。わたしには、そのように思えます。
わたしたちの先祖は、この山で神を礼拝してきました。けれど、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言います。」
イエスは言った。
「わたしを信じなさい。この山でも、エルサレムでもないところで、父に礼拝する時が来ます。
あなたがたは、自分たちが知らないものを礼拝していますが、わたしたちは、自分たちが知っているものを礼拝しています。
なぜなら、救いはユダヤ人たちから出るからです。
しかし、時が来ます――いや、今すでに来ています――その時には、真の礼拝者たちは、霊と真理において父に礼拝するようになります。
実に、父はそのような者たちを、ご自身を礼拝する者として求めておられます。
神〈ὁ θεός〉は霊です。そして、その方を礼拝する者たちは、霊と真理において礼拝しなければなりません。」
女性は言った。「……わたしは、メシアが来られることを知っています。その方が来られれば、すべてのことをわたしたちに知らせてくださるはずです。」
イエスはそれまで、ご自分がメシア――すなわちキリストであると、はっきり言い表されたことはなかった。
人々が預言の言葉と照らし合わせ、自ら気づくことを望まれていたからである。しかし、このときは違った。
イエスははっきりと言った。
「あなたと話している、このわたしが、その者です。」
風が一瞬やみ、あたりは不思議な静けさに包まれた。
女は息をのむ。目の前のこの人が、――メシア!
ちょうどその時――町へ出ていた弟子たちが戻ってきた。
ペテロが足を止める。「……おい、見ろよ。」
イエスが、一人の女性と向き合って話していた。
ヨハネが眉をひそめる。「サマリアの女だよな……?。」
ナタナエルが小さく言う。「普通、話さないだろ……。」
弟子たちはイエスのいる井戸にたどり着いた。だが、
――「彼女に何を求めているのですか。」
――「なぜ彼女と話しているのですか。」
そんな言葉は、喉元で止まって消えたまま、立ち尽くしている。
その時だった。女性は、水がめをその場に残したまま、急に町の方へ走り出した。
アンデレが驚く。「え、置いてったよ……?。」
フィリポが目を細める。「急いでるな……何かあったのか。」
女性は町に着くと、人々にこう告げた。
「来て、見てください!わたしがしたすべてのことを言い当てた一人の人がいます!この人が、キリストなのでしょうか!」
やがて、人々が次々と町を出て、イエスの所へ向かって来はじめた。
――その間。
ペテロが思い出したように声をかける。
「ラビ、食べてくださいよ。せっかく買ってきたんですから。」
イエスは静かに微笑んだ。
「ありがとうございます。しかし、わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」
弟子たちは顔を見合わせる。
フィリポが小声で言う。「……俺たちが知らない食べ物ってなんだ?」
アンデレが首をかしげる。「俺たちがいない間に、誰か持ってきたのか?」
ペテロがイエスをじっと見る。「いや……でもさ、なんか元気じゃないですか?さっきより。」
しかし・・・「誰も食べる物を差し上げていないよな?」弟子たちは互いに言い合った。
イエスはゆっくり口を開いた。
「わたしの食べ物は、わたしを遣わした方の御心を行い、その方のわざを成し遂げることです。」
そう、先ほどの女性に、神に関する真理を証ししたことから、イエスは内側から力が満ちてくるのを感じていた。
イエスは、立ち上がり、遠くを見つめながら続けた。「あなたがたは、『まだ四か月あって、それから収穫が来る』と言っているのではありませんか。」そして、弟子たちの方へ振り向く。
「――見なさい。」
その声に、弟子たちも顔を上げた。
丘の向こうから、人々がこちらへ歩いてくる。
白い衣が、秋の光を受けて揺れていた。
「あなたがたの目を上げて、畑をよく見なさい。すでに収穫のために白くなっています。」
ペテロが息をのむ。「……あれが、収穫……?。」
イエスはうなずいた。
「すでに刈り取る者は報酬を受け、永遠の命へ至る実を集めています。それは、種を蒔く者と刈り取る者とが共に喜ぶためです。
というのも、この点において、『一人が種を蒔き、別の人が刈り取る』という言葉は真実です。
わたしは、あなたがたが労苦しなかったものを刈り取るために、あなたがたを遣わしました。
ほかの人々が労苦したのであり、あなたがたは、彼らの労苦の働きに、すでに加わっているのです。」
その町から来た大勢のサマリア人はイエスに信仰を持った。あの女性が、「私がしたことをすべて言い当てました。」と証言したからである。
そして、そのサマリア人たちはイエスのもとに来て、自分たちの所に滞在するよう頼んだ。それでイエスと弟子たちは二日滞在した。
こうしてさらに多くの人が、イエスの語ることを聞いて信じるようになった。そして人々は、あの女性に口々にこう言っていた。
「もはや、あなたの話のゆえに信じているのではありません。私たち自身が聞いて知ったのです――この方こそ、本当に救い主です。そう世界の。」
二日後、一行はそこを去り、再びガリラヤへ向かう旅路を続けた。
脚注:サマリア人について
サマリア人とは、古代イスラエル北王国がアッシリア捕囚によって滅ぼされた後、その地に残ったイスラエル人と、アッシリアによって移住させられた異民族との混血的子孫とされる集団である。
彼らは宗教的にはユダヤ人と近縁でありつつも独自の伝統を保ち、聖典としてはモーセ五書のみを受け入れ、それ以外の預言書や諸書を権威あるものとは認めなかった。
礼拝の中心地もエルサレム神殿ではなく、ゲリジム山とされ、ここで神を礼拝していた。第一世紀には神殿自体は失われていたが、なお同地は聖地として崇敬されていた。
宗教的実践においては、唯一神ヤハウェ信仰、割礼、安息日遵守など、ユダヤ教と多くの共通点を持っていた一方、律法解釈や伝承の扱いに違いがあり、とくに口伝律法を重んじるファリサイ派とは対立的であった。こうした差異により、ユダヤ人とサマリア人の間には宗教的・社会的緊張が生じていた。
なお、ユダヤ人がサマリア人を嫌悪した理由は、単なる混血性以上に、状況に応じて自らの帰属を変える「日和見的態度。」にあると、フラウィウス・ヨセフスは記している。しかし同時に、サマリア人は完全な異邦人とも見なされず、その位置づけは当時のユダヤ社会においても一様ではなかった。
本作に引用されている聖書の言葉・表現の着想は、King James Version(1769)、 SBL Greek New Testament(© Society of Biblical Literature, CC-BY 4.0)およびWestminster Leningrad Codex をもとにしており、翻訳補助に Google 翻訳等の機械翻訳ツールを使用しています。
挿絵・ビジュアル制作には、ChatGPT および Google Gemini を使用しています。
© 2026 Yurika Shiohara
Text and illustrations
by Yurika Shiohara


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