第19話|石の神殿と生ける神殿【はじまりに還る路】 

小説

第三章 西暦三十年

第一節 春

第一項 石の神殿と生ける神殿

それから四ヶ月ほどが過ぎた。春の朝、ひんやりとした空気の中に祭り前の落ち着かない気配が漂っている。過ぎ越祭の季節――成人した男は皆、エルサレムへ上ることが求められている。もっとも、家族連れの姿も多く、女や子どもが付き添うのも珍しくはなかった。

「そろそろだな。俺たちも行くか。」ヨハネが言うと、兄のヤコブが答えた。「あいつと一緒に、よく上って行ったよな……ナザレのあたりで、よく合流したっけ。」懐かしそうに目を細める。
「イエスのことか?今は先生って呼んでるけどな」ヨハネはそう言って笑った。

そこへフィリポが顔をのぞかせた。
ヨハネが迎えにでる「来たか。」「一緒に行こうって言っただろ。準備できてるか?」フィリポが答える。彼の住むベツサイダは、ここカペルナウムからガリラヤ湖沿いに東へ数キロ行ったところで、この町はエルサレムへ上る際の通り道である。
「ああ、もちろん。さ、行こう!」

ヨハネ達一行が道を進むと、ほどなくしてペテロとアンデレの姿が見えた。「お、ちょうどいいところで会ったな。俺たちも今からだ」
さらに進むうちに、カナから来たナタナエルも加わった。「ずいぶん賑やかな道行きになったな。」

やがて前方に一団の影が見える。ナザレからの家族だった。
マリアが気づいて微笑む。「ヨハネ、ヤコブ、そしてサロメも!来ていたのね。」
「姉さんも相変わらずね。もう、長旅はつらいんじゃないの?」妹のサロメが姉のマリアをからかう。「母さんも人のこと言えないだろ」ヨハネとヤコブがたしなめる。

その中にイエスの姿があった。彼は一同を見渡し、「では、一緒に上りましょう。」と静かに言う。
「頼もしい息子たち。」サロメは微笑んだ。「道中、安心ね。」

エルサレムに着いた一行は、祭りの期間それぞれ思い思いに神殿の境内へ足を踏み入れていた。
「……なんだ、この騒ぎ。」ペテロが人混みの中で足を止め、眉をひそめた。
フィリポは周囲を見回しながら、少し考えるように答える。「犠牲をささげるため動物や、神殿税を払うための両替が必要なのは分かるけど……。」
ナタナエルが横から口をはさむ。「でもよ、こんなに売り声張り上げて、値段まで競ってるのは違うだろ。」
「本来は、もっと静かであるべきだ。」ヤコブが低く続ける。「犠牲の動物を必要とする人たちにつけこんで……商売って感じだな。」
「祭司長ご一家様の大事な収入源になっているのさ。」ヨハネが吐き捨てるように言った。

そのとき、人混みの向こうに一人の男の動きが目に入った。
「あれ……おい、イエスじゃないか?。」アンデレが目を凝らす。

イエスはおもむろに縄を束ねていた。そして、それを手にすると、一気に踏み出した。
「出て行きなさい!。」
鋭い声が響く。羊が逃げ、牛が押し合い、人々がどよめく。
「うわっ、始まったぞ……!。」
イエスは両替人の台に手をかけ、勢いよく倒した。硬貨が石畳に散らばり、乾いた音が弾ける。
「これらの物を運び出しなさい!」
ハト売りたちに向かって言う声は、怒りの中にもはっきりとした意志を帯びていた。
「私の父の家を、商売の家にしてはなりません!」

騒ぎの中で、弟子たちは息をのむ。

「……なんだ、これ……。」目の前で繰り広げられる情景を見ながら、弟子たちは思い出した、
まさに、それが書かれているということを――
『あなたの家への熱心が、私を食い尽くすであろう』と。

騒ぎを聞きつけ、ユダヤ人の指導者たちたちが詰め寄ってくる。「こんなことをするからには、しるしを見せてもらおう!」
イエスは振り返り、静かに答えた。「この神殿を壊しなさい。そうすれば、三日のうちにそれをわたしは起こします。」
「何だと?」人々がざわめく。「この神殿は四十六年もかかっているんだぞ。それを三日で?」
弟子たちは顔を見合わせた。
「……どういう意味だ?」ヤコブが首をかしげる。
「さあな……。」ヨハネも低く言う。「さすがに、三日で建て直すのは無理だろう。」

しかしイエスは、自分の体の神殿について語っていた。
まだ先の話であるが、イエスが死者たちの中から起こされたとき、弟子たちは彼がこのことを語っていたのを思い出し、そして聖書と、イエスが語ったその言葉とを信じた。

さて、群衆からやや離れた柱廊の陰で、この成り行きを冷ややかに見据える青年がいた。二十代前半、サンヘドリンでも尊敬を集めるパリサイ派の指導者ガマリエルの門下生として、厳格に律法を学んできたサウロである。
「あの者なのですね。先生がかつて語られた、類まれに聡明だったという少年は。」
不満の色を隠さず問いかける彼に、ガマリエルは顎に手を当て、静かに答えた。
「ふむ……あのように成長したか。なかなか律法を読み込んでいる者であるな。」
その穏やかな物言いが、サウロの胸にかえって忌ま忌ましい火を灯した。
――尊敬する我が師ともあろう方が、なんと生ぬるい。あの男は危険だ。あの男の言動は、人々の心を律法の正しさからそらしてしまうに違いない。――。

イエスが公の活動を開始して最初の過越しはこうして始まった。
イエスがエルサレムで過越の祭りの間におられたとき、多くの人々が、彼の行っていたしるしを見て、その名を信じた。

しかしイエスは、彼らに自分を委ねることはせず、彼らをそのまま信用はしなかった。

なぜなら、彼らの本心や動機をすでに見抜いていたからである。
また、人がどんな人間かを、他人から聞く必要はなかった。人の内に何があるかを、イエス自身が知っていたからである。

挿絵・ビジュアル制作には、ChatGPT および Google Gemini を使用しています。

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