第15話|イエスのバプテスマ【はじまりに還る路】

小説

第二章 西暦二十九年

第二節 秋

第一項 イエスのバプテスマ

秋の光は、やわらかくも澄んでいた。
エルサレムでの祭りに参加するためガリラヤの小村ナザレを発った一人の男が、巡礼を終え、乾いた風の吹くユダの荒野へと下ってゆく。
岩と砂の坂道を長く下ると、やがて視界が大きく開けた。
地の底のように低いヨルダンの谷。
その谷の中央に、細くうねる緑の帯が横たわっていた。
ヨルダン川である。
川向こうのベタニヤ――彼はそこを目指していた。

十月半ば。現代の暦でいえばその頃、ユダヤ暦ではティシュリの月の終わりにあたるころであっただろう。
仮庵の祭りの賑わいはすでに過ぎ、巡礼者たちの足音も静まりつつある。
ナザレから来たその男も、祭りを守るためにエルサレムを訪れ、その後この川辺へ足を延ばしたのかもしれない。川辺には、乾いた草の匂いと、水の流れる低い音が満ちていた。

川岸には人だかりができている。
粗末な衣をまとった男、町から来た女、税を取り立てる者、兵士――さまざまな人々が順に水へ入っていく。その中央に立つのは、荒野の預言者、バプテスマのヨハネであった。

その群衆の中を、さきほどの男が静かに進み出た。逞しい体つきながら穏やかな雰囲気をまとっている。
ヨハネの目が、ふと止まる。

「……あなたは」

一瞬、川のせせらぎ以外の音が消えたように感じられた。
ヨハネは水をかき分け、彼の前へ進み出る。
「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに……イエス……あなたが、私のところへ来られるのですか。」呻くような低く震えた声が、その困惑ぶりを如実に表していた。周囲の人々もざわめきを止め、二人を見守る。
イエスは優しいまなざしでヨハネを見た。その澄みきった目に圧倒される。
「今回は、そうさせてください。このようにして、私たちは正しいことをすべて行うのです。」
ヨハネはしばらく黙っていた。風が川面を揺らす。葦がさやさやと鳴る。
やがて彼は、深く息を吸った。「……分かりました。」

二人は水の中へ進む。ヨハネはイエスの両肩に手を置いた。一瞬、目を閉じる。
そして、イエスを水の中へ沈めた。
川面に波紋が広がる。
すぐに、イエスは水から上がった。水滴がしたたり落ち、陽光を受けてきらめく。
そのまま彼は目を閉じ、祈り始めた。すると――空気が変わった。ヨハネは思わず顔を上げる。澄み渡っていた青空が、内側から裂けるように感じられた。

天が開かれる。

そして、光の中から、聖なる霊がハトのような姿で降りてくるのが見えた。それは幻ではなかった。川辺にいたヨハネにも、はっきりと見えた。白い翼のような輝きが、イエスの上にとどまる。

その瞬間――

イエスの内に、はるか遠い記憶が奔流のように流れ込んだ。
人となる前、天におられたときの栄光。
父とともにあった光。
創造の朝の輝き。
失われていたはずの記憶が、鮮明に、圧倒的な確かさでよみがえる。

イエスは目を開いた。その瞳は、もはやただのガリラヤ地方の青年のものではなかった。
そして、空から声が響いた。

「あなたはわたしの子、愛された者。あなたにおいて、わたしは喜んだ。」

川辺にいた人々は息を呑み、地にひれ伏す者もいた。ヨハネは震えながら、その声を胸に刻む。

このとき、イエスはおよそ三十歳であった。
人々の目には、彼はナザレの大工ヨセフの子にすぎなかった。だが今、天からの宣言が、その見えざる身分を明らかにする。
荒野の川は、変わらず流れている。
しかしその日、その水辺から、イエスは公の活動を開始された。

人々の意見ではヨセフの子であったその人が、やがて全土を巡り、語り、癒やし、時代を揺り動かしていくことになるのである。

挿絵・ビジュアル制作には、ChatGPT および Google Gemini を使用しています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました