第四章 西暦三十一年
第一節 春
第一項 ベテスダの池での奇跡
場所 エルサレム/ベテスダの池
それから数か月が過ぎた。年が変わって西暦三十一年ニサンの月、春の光がやわらかくエルサレムの石畳を照らしていた。過ぎ越しの祭りが近づき、都には各地から来た巡礼者たちのざわめきが満ちている。朝の空気はまだひんやりとしていたが、日差しにはすでに季節のぬくもりが感じられた。
さて、エルサレムは城壁に囲まれており、その北側、神殿に近い場所には、いけにえ用の羊を運び入れるための「羊の門」と呼ばれる門があった。そして、そのところに池があった。ベテスダと呼ばれるその場所には柱廊があった。五つの柱廊の影の下、多くの人々が横たわっている。病に苦しむ者、目の見えない者、足の不自由な者――皆、わずかな望みにすがるように、水面を見つめていた。
ときおり風が吹き、水がかすかに揺れる。そのたびに、人々の間に緊張が走る。「今かもしれない」と、誰もが池に向かって身を乗り出す。しかし、すぐに波は静まり、落胆が広がる。
その中に、ひとりの男性がいた。三十八年もの間、病に伏してきた者である。やせ細った体を横たえ、動くこともままならず、ただ水面を見つめ続けていた。
そこへ、イエスが近づかれた。男のそばに立ち、その長い年月を見抜くように静かに見つめられる。
「あなたは、良くなりたいのですか。」
男性は顔を上げた。かすれた声で答える。
「先生……水が動くときに、私を池に入れてくれる人がいないのです。行こうとしても、いつもほかの人が先に入ってしまいます。」その言葉には、長い失望と諦めがにじんでいた。
イエスはその男をまっすぐに見て言われた。
「起きなさい。あなたの敷物を取り上げて、歩きなさい。」
次の瞬間、男性の体に力が漲った。驚きに目を見開きながら、ゆっくりと身を起こす。そのまま立ち上がり、両足で地を踏みしめる。
――歩ける。
彼は敷物を抱え、確かな足取りで進み始めた。
ざわめきが広がる。長い年月、その場に縛られていた一人の男性が、いま自分の足で歩いているのだ。
さて、その日は安息日だった。
そこに居合わせた宗教指導者をはじめ、伝統に熱心なユダヤ人たちは、治った人に言いだした。
「今日は安息日だ。敷物を運んではいけない。」
男性は足を止め、戸惑いながら答えた。
「私を治してくださった方が、『それを持って、歩きなさい』と言われたのです。」
彼らは顔を見合わせ、すぐに問いただした。
「そんなことを言ったのは誰だ。」
男性はあたりを見まわした。しかし見当たらない。静かに首を振った。
「分かりません……。」
すでに、イエスはその場の群衆に紛れ込んでしまっていた。
この後、イエスはその男性を神殿で見つけて、声をかけられた。
「見なさい、あなたは良くなっています。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことが起こるかもしれません。」
その人は去って行き、ユダヤ人たちに、自分を健やかにしたのはイエスであると告げた。
――安息日に、このようなことを行った。
それゆえ、彼らはイエスを責め、迫害し始めた。
しかしイエスは語られた。
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですから、わたしも働いています。」
この言葉に、ユダヤ人たちはますますイエスを殺そうとするようになった。
安息日を破っているだけでなく、神〈τὸν θεόν〉を自分の父と呼び、自分を神〈τῷ θεῷ〉と等しいものとしている――
彼らには、そのように受け取られたのである。
イエスは、彼らに向かって語り始められた。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、自分からは何も行うことができません。父がしておられるのを見るのでなければ。というのも、その方がなさることは何でも、子も同じように行うのです。
なぜなら、父は子を愛しておられ、ご自身が行っているすべてのことを彼に示されるからです。そして、これらよりもさらに大きなわざを彼に示されます。それは、あなたがたが驚くためです。
というのも、父が死者たちを起こし、生かすように、子もまた、自分が望む者たちを生かします。
なぜなら、父はだれをも裁かず、裁きのすべてを子に与えられたからです。
それは、すべての人々が子を敬うためであり、父を敬うのと同じようにです。子を敬わない者は、子を遣わされた父をも敬っていません。
まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの言葉を聞き、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を持っています。そして裁きへは来ることがなく、死から命へと移っています。
まことに、まことに、あなたがたに言います。時が来ます――いや、今すでに来ています――その時、死者たちは神〈τοῦ θεοῦ〉の子の声を聞き、そして、聞いて受け入れた者たちは生きることになります。
というのも、父がご自身のうちに命を持っておられるように、そのように子にも、ご自身のうちに命を持つことをお与えになりました。
そしてまた、彼に裁きを行う権威をお与えになりました。彼が人の子であるからです。
このことに驚いてはいけません。というのも、時が来ます――その時、墓の中にいるすべての人々が、彼の声を聞き、そして出て来るのです
――善いことを行った者たちは命の復活へ、しかし、悪いことを行った者たちは裁きの復活へと。
わたしは、自分からは何も行うことができません。わたしは聞くとおりに裁きます。そして、わたしの裁きは正しいのです。なぜなら、わたしは自分の意志を求めず、わたしを遣わされた方の意志を求めるからです。
もし、わたしについて証するのがわたしだけであるなら、わたしの証しは法的証言として成立しません。
わたしについて証しする別の方がおられます。そして、その方がわたしについて証ししているその証しが真実であることを、わたしは知っています。
あなたがたはヨハネのもとへ人を遣わしました。そして、彼は真理に対して証ししました。
しかし、わたしは人からの証しに依存しているのではありません。ただ、あなたがたが救われるために、これらのことを言っているのです。
彼は、燃えて輝くともしびでした。あなたがたは、しばらくの間、その光の中で喜ぼうとしたのです。
しかし、わたしにはヨハネのものよりも大きな証しがあります。というのも、父がわたしに、それらを成し遂げるためにお与えになったそのわざ――まさに、わたしが行っているそのわざ――が、わたしについて証ししているからです。すなわち、父がわたしを遣わされたということを。
そして、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証ししておられます。
あなたがたは、その方の声をこれまで一度も聞いたことがなく、その姿を見たこともありません。」
春の陽はさらに傾き、神殿の回廊に長い影を落としていた。
過ぎ越しの時期、人々のざわめきは絶えないが、この場には重い沈黙が満ちている。
イエスは、彼らをまっすぐに見据えて続けた。
「あなたがたは、その方の言葉を自分たちのうちにとどまらせてはいません。その方が遣わした者を、信じていないからです。
あなたがたは聖書を調べています。そこに永遠の命があると考えているからです。
そして、その聖書こそが、わたしについて証ししているのです。それなのに、あなたがたは命を得るために、わたしのもとへ来ようとしません。」
その声は人の心を深く見抜く響きを帯びていた。人々の間にわずかなざわめきが走る。
ここにいるユダヤ人の指導者――律法を重んじ、日々それを読み解いてきた者たち――彼らほどの聖書の知識を持ってすれば、その言葉と目の前で繰り広げられるイエスの言動を照らし合わせ、イエスが約束のメシアだと容易に識別できたはずである。だが彼らは、その聖書の証しを正面から受け取ろうとはしないのである。
「わたしは、人からの栄光を受け取りません。」
そう、イエスは、人の評価や承認に依存していないのである。
「しかし、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちに、神〈τοῦ θεοῦ〉への愛がないことを。
わたしは、わたしの父の名において来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。もし、別の者が自分自身の名において来るなら、あなたがたはその者を受け入れるでしょう。」
互いに顔を見合わせる者もいたが、誰も反論できない。
「どうして信じることができるのでしょうか。互いからの栄光を受け取りながら、唯一の神〈τοῦ μόνου θεοῦ〉からの栄光を求めていないのに。」
今まさに、人の評価に寄りかかる心の在り方が、静かに暴かれていく。
イエスは、さらに言葉を続けた。
「わたしがあなたがたを父に告発すると思ってはなりません。あなたがたを告発する者がいます――モーセです。あなたがたが望みを置いているその人です。
もしモーセを信じていたなら、わたしをも信じていたでしょう。彼は、わたしについて書いたからです。」
沈黙が広がる。
「しかし、彼の書いたものを信じていないなら、どうしてわたしの言葉を信じることができるでしょうか。」
※脚注※ベテスダの池について
エルサレムにあったベテスダ(ベツザタ)の池は、五つの柱廊を持つ場所で、多くの病人が集まっていた(ヨハネ5:2–3)。
一部の写本およびジェームズ王訳聖書では、3節後半の一部と4節にかけて、「(3節後半)彼らは水の動くのを待っていたのである。(4節)主の使いが時折池に降りて水を動かし、その水が動いた後で最初に入った者はどんな病でも癒やされた。」という説明が挿入されている。
しかし、この部分は、西暦4世紀のシナイ写本やバチカン写本などの最古級のギリシャ語写本には含まれておらず、後代に加えられた説明的補足と考えられている。
これは、当時この池に関して、水が動くと癒やしが起こるという民間の信仰や伝承が広く知られており、それを読者に説明するために付加された可能性が高い。
なお、本文ではイエスはこの池に入ることなく、長年病を患っていた人をただ言葉によって癒やしている点も重要である。
本作に引用されている聖書の言葉・表現の着想は、King James Version(1769)、 SBL Greek New Testament(© Society of Biblical Literature, CC-BY 4.0)およびWestminster Leningrad Codex をもとにしており、翻訳補助に Google 翻訳等の機械翻訳ツールを使用しています。
挿絵・ビジュアル制作には、ChatGPT および Google Gemini を使用しています。
© 2026 Yurika Shiohara
Text and illustrations
by Yurika Shiohara


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