第三章 西暦三十年
第三節 冬
第三項 古い酒と新しい酒
場所 カペルナウム
わたしは、いけにえではなく憐れみを望む。
焼き尽くすささげ物よりも、
神を知ることを。
~ホセア六章六節~
冬の乾いた風が湖面に行き渡る。
岸辺に点在した低木や葦が冷たい風にあおられ、乾いた葉音が寒々しく響いていた。
そこに、旅から戻って来たイエスが立った。みるみるうちに群衆が集まってくる。イエスは彼らを教え始めた。
やがて一行は町へと向かった。
道の途中、徴税所に一人の男が座っていた。整然と帳簿を並べ、硬い表情で銀貨を数えている。
――アルパヨの子レビ、マタイ。カペルナウムに住み、ヘロデ・アンティパス王の漁業権に関わる徴税を請け負っていたらしく、漁師たちとも顔なじみだった。
シモンが小声で吐き捨てる。
「……あいつ、知ってる。何度も取り立てに来やがった。」
ヤコブも眉をひそめる。「俺もだ。いい印象はねえな。」
その前でイエスは足を止めた。
「私の弟子になりなさい。」
思いがけない呼びかけに、空気が止まる。マタイは顔を上げ、しばらくイエスを見つめた。そしてすぐに立ち上がると、帳簿も金もそのままにして言った。
「……はい!あなたについていきます。」その言葉に迷いはなかった。
その後、マタイは自分の家でイエスのために盛大な宴を開いた。室内は人の熱気で満ち、食卓には料理が次から次と並べられる。招かれたのは同業の徴税人や町の人々――罪人と呼ばれる者たちで、次々と席に加わっていった。
シモンは落ち着かない様子で辺りを見回す。「……こんな連中と一緒に飯か。」
アンデレは穏やかに応じる。「でも、みんな嬉しそうだよ。」
その様子を外から見ていたパリサイ派の律法学者たちは、弟子たちに言った。
「あなたたちの先生は、なぜ徴税人や罪人と食事をするのか。」
弟子たちが言葉に詰まる中、イエスが静かに答える。
「健康な人に医者は必要ではありません。病気の人にこそ必要なのです。『私が望むのは憐れみであって、犠牲ではない』――この意味を、行って学んできなさい。」
室内は静まり返る。イエスは周囲を見渡し、穏やかに結んだ。
「私は正しい人ではなく、罪人を招くために来ました。悔い改めへ導くために来たのです。」
さて、そこには、バプテストのヨハネの弟子たちもいた。ヨハネはなお牢に繋がれたままである。
彼らはパリサイ派の人々と同じく、断食を守る者たちだった。それで、そのうちの何人かが進み出て、イエスに尋ねる。
「私たちやパリサイ派の者たちはたびたび断食をして祈願を捧げます。なのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」
問いかけた者たちの視線は、ふとヨハネとアンデレに向けられた。かつて同じ師に従っていた者たち――しばしの沈黙が、かえって場の空気を張りつめさせる。
イエスは穏やかに口を開いた。
「花婿に付き添う友人たちは、花婿が共にいる間、悲しむことができるでしょうか。」
少し間を置き、続ける。
「しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その時には断食します。」
予想外の答えに、その場にざわめきが広がった。
「……何の話だ?」とヤコブが小さくつぶやく。
ヨハネは目を細めた。「どこかで聞いた……。」
思い出す。かつてバプテストのヨハネが語った言葉。
――花嫁を迎えるのは花婿であり、自分はその友人だ、と。
アンデレが静かに言う。「ヨハネは、自分を“花婿の友人”だと言っていたね。」
当時、花婿の友人は重要な役割を担っていた。結婚の取り決めを整え、花嫁と花婿を結び合わせる者。まさに仲介者としての務めである。あの時ヨハネは、イエスを花婿になぞらえ、自らの役割の終わりを喜んでいたのだ。
ヤコブは低くつぶやく。「……じゃあ、花婿は――この方か。」
シモンも腕を組む。「ってことは、俺たちはその“友人”か。」
マタイは整理するように言う。「つまり、イエスが共にいる間は喜びの時で、断食の時ではない……そういうことか。」
しかし一つ、引っかかる言葉が残る。
――「花婿が取り去られる時が来る」。
イエスの意味深な言葉に、その場にいた者たちは思いを巡らせていた。
冬の夕暮れはさらに深まり、冷たい風が家々の間を吹き抜けていた。空は紫がかり、灯りがともり始める中で、人々はまだイエスの言葉に耳を傾けている。静まりかえった空気の中で、イエスは続けて語られた。
「古い外衣を繕うために、縮んでいない布切れを使う人はいません。そんなことをすれば、かえって破れはひどくなります。」少し間を置き、さらに言葉を重ねる。
「また、新しいぶどう酒を古い革袋に入れる人もいません。革袋は張り裂け、ぶどう酒も失われてしまいます。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるのです。そうすれば、どちらも保たれます。」
シモンが小さくうなずく。「……そりゃそうだな。」
マタイは静かに言う。「理にかなっています。古いものは、新しいものの変化に耐えられない。」
イエスは周囲を見回して付け加えた。
「でも、だれも古いぶどう酒を飲んでから、新しいものを望みませんよね。たいいてい『古いもののほうが良い』と言うのものです。」
その言葉に、周囲の者たちは沈黙した。
確かに古いぶどう酒の方がいい――まろやかで、飲みやすいから――。
パリサイ派の者たちの顔には、苦々しい不満の色が浮かんでいた。
イエスのことばは はっきりしていた。
弟子たちに、儀式的な断食や古い慣習に縛られることを求めてはならないということ。
そして同時に、伝統に親しむ者たちが、この新しい教えをすぐには受け入れないことも承知しておられた。
その後、イエスはユダヤへと足を向けた。
イエスはユダヤに着くと、ここでも会堂で伝道していった。
やがて季節は巡り、冷え込みはやわらぎ、風に春の気配が混じり始める。
過越し祭の時期が近づいている。
本作に引用されている聖書の言葉・表現の着想は、King James Version(1769)、 SBL Greek New Testament(© Society of Biblical Literature, CC-BY 4.0)およびWestminster Leningrad Codex をもとにしており、翻訳補助に Google 翻訳等の機械翻訳ツールを使用しています。
挿絵・ビジュアル制作には、ChatGPT および Google Gemini を使用しています。
© 2026 Yurika Shiohara
Text and illustrations
by Yurika Shiohara


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