先日、映画『Michael/マイケル』を観た。
正直に言うと、私はマイケル・ジャクソンについて、ほとんど知らない。
もちろん、世界的なスーパースターなので、その存在や有名な曲くらいは知っている。けれど、自分から好んで曲を聴いたり、動画を観たりすることはほとんどなかったし、彼にまつわる数々の報道も、自分とは無関係な縁のない世界の出来事として聞き流す程度だった。
とはいえ、彼の全盛期を生きてきた世代の一人として、どんな人物だったのかという興味はあった。
華やかで膨大なエンターテインメントを数時間で堪能できるだろう――そんな、いわば“つまみ食い”のような軽い気持ちで映画館に足を運んだ。
しかし、実際に観終わったとき、私の中で彼に対する見方は大きく変わっていた。
彼の人生の複雑さ、そしてその奥にある生身の人間としての重さに触れた気がしたからだ。
劇中で特に印象に残ったのは、母キャサリンが幼いマイケルに語りかける場面だ。
「あなたが生まれた瞬間から、特別な子だと分かっていた。あなたには特別な光がある……エホバから与えられたのよ。」
この言葉を聞いて、私はすぐに聖書の一節を思い出した。
「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」
――マタイ 5:16(新共同訳)
この場面で印象的だったのは、劇中であえて “Jehovah(エホバ)” という神名がはっきり使われていたことだ。
神の名をあえて使う彼女のセリフは、ある特定の宗教的背景を強く想起させる。
映画は説明的に語りすぎることなく、それでいてマイケルがどのような信仰環境の中で育ったのかを明確に示していたように思う。
そして、そこに私は強い興味を覚えた。
というのも、その宗教組織の教義は、信仰が単なる心の中にとどまらず、日常生活や娯楽の選択にまで大きく影響することで知られているからだ。
祝祭日を祝わないこと、世俗から距離を置くこと、厳格な道徳基準、さらにはオカルトや心霊術的な要素を避けることなど、その規律は広範囲に及ぶ。
そう考えると、後にマイケルが築き上げた芸術世界とのギャップに驚かされる。
幻想、変身、不気味さ、美、恐怖、欲望、孤独。
彼の作品には、人間の渇望、狂気といった深い感情が色濃く表れている。
とりわけ Thriller を思うと、その世界観と幼少期の信仰環境との間には、相当大きな緊張関係があったのではないかと想像してしまう。
さらに興味深かったのは、劇中の印象的なシーン
――プールに浮かびながら、曲が降りてくるのを待つ場面だ。
マイケルは冗談めかして、こう語る。
「今日は神様が全部プリンスに曲をあげちゃったのかな」
この台詞に、思わず「おや・・?」と思った。
なぜなら、プリンスもまた、後年その同じ宗教組織に所属し、生涯そこに留まり続けた人物として知られているからだ。
人生の途中でその世界から離れていったマイケル。
人生の途中でその世界に入り、死ぬまで信仰を守り続けたプリンス。
同じ時代を代表する二人の天才が、偶然にも同じ信仰的背景と接点を持っていた。
本人たちがそのことをどこまで意識していたのかは分からない。
しかし、この対比は非常に興味深い。
映画の中のあの台詞が、単なるユーモアとして描かれたのか、それとも制作側がこうした背景まで意識していたのかは分からない。
いずれにしても、そこに不思議な巡り合わせのようなものを感じずにはいられない。
映画『Michael』は、単なるスターの伝記を描く作品ではない。
彼が抱えていた葛藤、孤独、そして表現への渇望。そしてその根底にあったであろう信仰‥。
マイケルにとって、神とはどのような存在だったのだろうか。
そして神は、彼のことをどのように見ておられたのだろうか。
その答えを知ることはできない。
ただ、彼の音楽の奥には、叫びにも祈りにも似た何かが確かにあったように思う。。
※劇中のセリフは正確な引用ではなく、あくまで記憶に基づくものです。細かな表現が気になる方は、ぜひ作品をご覧ください。


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