第29話|安息日は誰のためのものか【はじまりに還る路】

小説

第四章 西暦三十一年

第一節 春

第二項 安息日は誰のためのものか

無酵母パンの祭りが終わり、イエスと弟子たちはエルサレムを離れてガリラヤへ向かっていた。春の昼下がり、柔らかな風が吹き抜け、道の両側には、刈り入れ前の大麦畑が金色の波のように広がっている。

「腹減ったな……。」ペテロが穂先を見つめながら言った。
「ちょうど収穫の時期ですね。」マタイが辺りを見回す。
弟子たちは歩きながら穂を摘み、手でもみほぐして実を口に入れ始めた。乾いた殻が風に飛ぶ。

その様子を見ていたパリサイ派の人たちが、険しい顔つきでイエスに近づいた。
「見なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはいけないことをしています。」
律法によると、安息日には仕事をしてはいけない。
彼ら律法学者は、穂をむしることを収穫、手でもむことを脱穀とみなし、それを“仕事”だと決めつけていた。自分たちこそが何が仕事かを定める権利を持つ、と考えていたのである。
(やべぇ・・。見つかっちまったか・・)思わず弟子たちは身をすくめた。

しかしイエスは静かに言われた。
「あなたがたは読まなかったのですか。ダビデが空腹になった時、彼と共にいた男性たちもそうでしたが、その時ダビデが何をしたかを。
祭司長アビヤタルに関する記述によれば、彼が神の家に入り、そして供えのパンを食べたことを。それは、彼自身にも、彼と共にいた男性たちにも、食べることは許されていませんでした。祭司たちだけに許されていたのです。」

パリサイ派の人たちは黙った。
イエスは続けられた。

「あるいは、律法の中で読まなかったのですか。安息日に、神殿の中で祭司たちは安息日を破っているのに、責めを負わない、ということを。」

祭司たちは安息日でも犠牲をささげるため、動物をほふり、肉をさばいていた。いわば、仕事をしていたのである。しかし、それは神に仕える務めとして許されていることは周知のことである。

イエスはパリサイ派の人々を見回した。
「しかし、あなたがたに言います。神殿より大いなるものが、ここにいるのです。『わたしは憐れみを望むのであって、いけにえではない』これが何を意味するか、もしあなたがたが知っていたなら、あなたがたは罪のない人たちを断罪しなかったでしょう。」

まさに、人を助け休ませるために神が与えた安息日が、いつしか人を縛り、罪に定めるための窮屈な規則へと変えられてしまっていたのである。ちょうど今、空腹を満たそうとしただけの弟子たちまで、断罪されたように。

イエスは続けた。
「人のために安息日が設けられたのであり、安息日のために人が存在するようになったのではありません。」
――お前にそんなことを言える権限があるのか――律法学者たちは鋭い眼光でイエスを睨みつけた。
イエスは彼らをしっかりと見据えて言った。
「なぜなら、人の子は安息日の主〈κύριος〉だからです。」

その場にいた者が驚きを隠せない表情でイエスを見つめる。
――わたしには、安息日をどう用いるべきかを決める権威がある――その言葉はそれを意味していた。

この方こそ、安息日の主・・・弟子たちはその場に立ち尽くす律法学者たちを後に残し、イエスに従い、黄金色の麦畑の道を進んで行った。

数日後、一行はガリラヤに着いた。
イエスと弟子たちは町へ入り、安息日に会堂へ向かった。

会堂の中には、多くの人が集まっていた。その中に、右手がまひした男性が静かに座っていた。
律法学者とパリサイ派の人たちもその中にいて、イエスをじっと見つめていた。その目には敵意がこもっていた。
「完全に待ち構えているな……」マタイは小声でつぶやいた。

やがて一人が進み出て尋ねた。
「安息日に病気を治してよいのでしょうか」
イエスは彼らの考えを見抜いていた。そして静かに言った。
「あなたがたのうち、だれか一人の男性が、一匹の羊を持っているとして、その羊が安息日に穴へ落ちたなら、その男性はそれをつかんで引き上げないでしょうか。」
会堂は静まり返った。イエスは続けた。
「それなら、人間は羊よりどれほど価値があることでしょう。ですから、安息日に良いことを行うのは許されているのです。」

ペテロは腕を組みながら、低くつぶやいた。
「その通りだ……」

イエスは、片手がまひした男性を見た。「立ち上がって、中央に立ちなさい。」
男性は戸惑いながらも立ち上がった。
人々の視線が集まる。
イエスは周囲に呼びかけた。
「あなた方に尋ねますが、安息日にしてよいのは、助けることですか、苦しめることですか。命を救うことですか、滅ぼすことですか。」
誰も答えなかった。
春の風が入口から吹き入れ、戸を揺らす音だけが聞こえた。
イエスは憤りを覚えながら見回した。
それから、その男性に言った。
「手を伸ばしなさい。」
男性が震える手を前へ出す。すると、縮こまっていた右手が、みるみる元通りになった。
「治った……!」人々がどよめく。

喜びの歓声が沸き起こる中、律法学者とパリサイ派の人たちは怒りに顔をゆがめ、会堂を出て行った。
そしてすぐにヘロデ党の人たちと集まり、イエスをどう始末するか話し合い始めた。
そのことを知ったイエスは、その場を去り、弟子たちと共に湖へ向かった。
すると、大勢の群衆が後を追って来た。
ガリラヤだけではない。
ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう、さらにティルスやシドンからも人々が来ていた。
「すごい人数だな……」ヤコブが言う。
ヨハネも群衆を見渡した。「押しつぶされそうだ。」

そこでイエスは弟子たちに、小舟を用意させた。
病を抱えた人々が、イエスに触れようとして押し寄せていたからである。
「うちで母を癒してもらったときもこんな状況になったな」
ペテロがアンデレに声をかける。
「ああ、そうだったな。」

ただ、あの時は、安息日が終わってから人々は集まってきた。
しかし今は、人目をはばかることなく押し寄せていた。

イエスは次々と人々を治していった。
それでも厳しく命じた。
「私のことを、誰にも話してはいけません。」

それは、預言者イザヤの言葉が実現するためだった。

群衆の中には、悪霊につかれた者たちもいた。
そして汚れた霊たちは、彼を見るたびに、彼の前にひれ伏し、『あなたは神の子です』と叫んでいた。
しかしイエスは、彼らが自分を明らかにしないよう、何度も厳しく戒めていた。

挿絵・ビジュアル制作には、ChatGPT および Google Gemini を使用しています。

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