第18話|イエスの最初の奇跡【はじまりに還る路】

小説

第二章 西暦二十九年

第三節 冬

第二項 イエスの最初の奇跡

一行は、婚礼の席へ向かってカナの村を歩いていた。
冬の雨季に入ったガリラヤは空気が澄んでいた。夕日が丘の斜面に広がるぶどう畑を淡く照らしている。
カナはイスラエル北部、ガリラヤの丘陵の中腹にある町だ。
この地方は地中海性気候で、冬は雨が多く、山間部は標高があるため朝晩は冷え込む。昼と夜の寒暖差が大きいこの土地は、ぶどう栽培に適していた。

「なるほどな。」ペテロが丘の斜面を見渡した。「ぶどう畑ばっかりだ。」
「だからワインがうまいんだろ。」アンデレが笑う。
「婚礼の酒には困らなさそうだな。」フィリポも言った。
「いや~しかし、よく歩いた!。」ヨハネが叫ぶ。
イエスは穏やかな笑みをたたえ、ヨハネの肩を軽く叩く。
「今日はお祝いです。楽しみましょう。」
「俺は料理が楽しみですけどね。」
皆が笑った。

やがて一行は婚礼の家に着いた。
夕方の冷たい風が丘を吹き抜けるころ、宴はすでに始まっていた。

そこには、イエスの母マリアもいた。
しばらくして、給仕たちが何やら慌ただしく動き始めた。壺をのぞき込み、顔を見合わせている。
マリアはそれに気づき、イエスのそばに来て言った。
「ぶどう酒がありません。」
イエスは静かに母を見た。「それは……私たちが心配することですか。」そして、少し間を置いて言った。「私の時は、まだ来ていません。」

マリアは一瞬イエスを見つめたが、給仕たちの方へ向き直ると、落ち着いた声で言った。
「彼が言うことは、何でもしてください。」
ご馳走に夢中になっていた弟子たちも、なにか異変を感じて顔を見合わせた。
「……何だ?。」ペテロが小声で言う。「さあ。」アンデレが肩をすくめた。

そこにはユダヤ人の清めのしきたりのための石の水がめが六つ並んでいた。
一つが五十から六十リットルほど入る大きなものだ。
イエスは給仕たちに言った。
「そのかめに、水を入れてください。」
給仕たちは水を運び、かめを満たしていった。やがて六つすべてが縁までいっぱいになった。
イエスは言った。
「では、少しくんで、宴会の幹事の所へ持っていってください。」
給仕の一人が、呆れた顔をして柄杓を水がめに入れた。
――いくら酔っているからって・・・水を飲ますつもりか?

だが、柄杓から杯へ注いだ液体は、深い赤色に見えた。
――周りで焚いている炎が映っているのか??いや、しかし・・・

給仕はたち広がる香りに思わず胸が躍った。
……ぶどう酒だ!!。
彼は戸惑いながら、それを幹事の所へ運んだ。幹事は杯を受け取り、一口味見した。
その瞬間、眉を上げた。
「これは……。」彼は花婿を呼び寄せた。
「普通は最初に上等のぶどう酒を出し、皆が酔った頃に質の落ちるものを出すものです。」
杯を掲げて言った。「ですが、あなたは今まで上等のぶどう酒を取っておいたのですね。」

ふたたび、ぶどう酒が振舞われはじめると、人々は歓声を上げた。
「こんなうまいぶどう酒は初めてだ!」「花婿、よくこんな酒を取っておいたな!」

しかし、その酒の出どころを知っているのは、水を汲んだ給仕たちだけだった。彼らは思わずイエスの方を振り返った。その様子を、マリアは少し離れた所から静かに見ていた。そのそばに立っていたヨハネが、マリアに声をかけた。
「伯母さん……今の、イエスがしたんですか」
マリアは穏やかに微笑んだ。「彼――この方が、ご自分の力を現される時が来たのです。」
ヨハネは石の水がめを見た。胸の奥がざわめく。

――神の業。

ヨハネは思わずイエスの方を見た。
一方、少し離れた所で、フィリポとナタナエルも低い声で話していた。
フィリポが言った。「これは水だったらしいぞ。」
ナタナエルは腕を組んだまま、ゆっくり頷いた。「確かに水を入れていた。」
少し沈黙が流れた。
ナタナエルが静かに言った。「フィリポ……」
「何だ」
「お前が言った通りかもしれないな」
フィリポは眉を上げた。「モーセが律法に書き、預言者たちも語っている方――か?」
ナタナエルは、宴の人々の中にいるイエスを見つめた。「そうだな・・」そして、ゆっくり続けた。「…神がこの方と共におられるのは確かだ」

その夜、宴の人々は上等のぶどう酒に喜び、花婿を称えた。
だが、奇跡の出どころを知っていたのは、わずかな者たちだけだった。
そして、心の中で同じことを思っていた。

――この方のうちに、神の力が働いている。

こうしてイエスは、ガリラヤのカナで最初のしるしを行い、ご自分の栄光を現された。
それを見て、弟子たちはイエスを信じたのである。

夜が明け、マリアが言った。「私たち、これから、カペルナウムの親族の家へ行くところなのよ。ヨハネあなたの家よ。」
婚礼にはイエスの弟たち、すなわち― ヤコブ、ヨセフ、シモンそしてユダ―も来ていたのである。
イエスは顔を上げた。「そうですか。では、私も一緒に行きましょう。」
ヨハネが笑う。「みんな大歓迎さ。」
アンデレがペテロに肩をぶつけた。
「なあ、俺たちの町に先生を連れてくることになるな」
「ちょうどいいじゃないか」ペテロは答える。「カペルナウム は人も多い。先生を知ってもらうのにも都合がいいだろ。」
フィリポとナタナエルも頷き、一行は丘の道を下って湖の町へ向かった。
ヨハネの家に身を寄せ、彼らはそこで数日を過ごした。
その後、それぞれの帰途につき、日々の生活に戻った。

また会うのは、数か月先。その再会が、彼らの人生を変えることになるとは、まだ誰も思っていなかった。

注 記
本稿では、カナの婚礼の後から次の項のエルサレムへ上るまでの期間について、数か月あったと考えて描写している。
しかし聖書本文が直接語っている内容は非常に簡潔である。

まず ヨハネによる福音書2:12 には、婚礼後イエスは母や兄弟、弟子たちと共に カペルナウム に下り、「そこに長くは滞在しなかった」とだけ記されている。
その直後の聖句 ヨハネ2:13 では、「ユダヤ人の 過越の祭り が近づいたので、イエスは エルサレム に上られた」と続く。

一般的な解釈では、この二つの出来事は比較的短い期間のうちに続けて起こったと考えられることが多い。ただし聖書本文は、なぜイエスはカペルナウムに行ったのか、また、カペルナウムを出た後の具体的な行動や滞在場所については何も記していない。

本稿では、一つの仮説として、この出来事を次のように想定している。
すなわち、イエスが ヨルダン川 でバプテスマを受けたのは 仮庵の祭り の後と仮定し、四十日間荒野での試練の後は、比較的すぐに再び バプテスマのヨハネ のもとを訪れたと推測する。カナ の婚礼があったのは、その数日後なので、一行がカペルナウムへ行ったのは、キスレウ月下旬(献納の祭り の少し前)頃と想定すると、過ぎ越しの祭り(ニサン月14日~21日)までは3ヵ月半ほどの期間があることになる。
それで著者は、イエスは母、弟たちや弟子たちと共にカペルナウムに数日滞在し、その後、家族と共に ナザレ に戻ったのではないかと考察している。実家で数か月過ごした後、過越の時期にそこからエルサレムへ向かったとして物語を進めている。

もっとも、これらの細かな時間関係や移動経路は福音書に明確に記されているわけではなく、歴史的状況や祭りの時期などを手がかりにした一つの推測にすぎない。本書の描写は、そのような可能性の一つとして物語を構成したものである。

挿絵・ビジュアル制作には、ChatGPT および Google Gemini を使用しています。

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