第25話|弟子への召し~命を引き上げる者へ【はじまりに還る路】

小説

第三章 西暦三十年

第三節 冬

第一項 弟子への召し~命を引き上げる者へ

ナザレの家を離れ、ひとりガリラヤ湖畔のカペルナウムに来てからしばらく後のこと、イエスは、湖の岸辺を歩いていた。
初冬のガリラヤ湖の朝は冷え込み、白い息が静かな水面にほどけていく。
湖に目をやると、漁師が二人、網を投げていた。
イエスによってペテロと命名されたシモンとその兄弟アンデレである。イエスと別れた後、二人は元の通り漁師をしていたのである。

イエスはその湖のほとりに立って話始めた。大勢の人がその周りに群がる。話しながら、イエスの目の端は、湖畔に二艘の舟が泊めてあるのをとらえた。
先ほどの漁師たちが舟から下りて、網を洗っているのが見える。
イエスは群衆をそのままにして、そのうちの一艘の舟に近づいた。

「……シモンですね。」
イエスは静かに声をかけた。
振り向いたシモンは目を見開く。
「……先生?」
その横で、アンデレが穏やかに笑う。「久しぶりですね。」
イエスはうなずき、湖を見やった。
「少し、舟を出していただけますか。そこから話したいのです。」
「もちろんです。」
シモンは即座に答え、ひょいと舟に乗り込む。アンデレも手際よく綱を抱え上げ、舟に乗り込んだ。
湖面を切って進み、少しだけ陸から離れた位置で止める。
イエスは腰を下ろし、群衆を見渡した。
岸では人々が肩を寄せ合い、凍える手をこすりながら待っている。
シモンはその様子をちらりと見て、つぶやいた。
「……こんな朝でも集まるんだな。」
静かな湖面にこだまするように、イエスの声はあたり一面に響き渡った。

話し終えたころ、日もだいぶ高くなり、冷えた風がやわらいできていた。
イエスはシモンに向き直る。
「沖に出て、網を下ろしてみなさい。」
シモンは苦笑して肩をすくめた。「先生、俺たち何も捕れなかったんですよ。夜通しやったけど。……でも、まあ――あなたが言うならやってみます。」
アンデレが静かにうなずく。「行こう、もう一度だけ。」

舟はそのまま沖へ出る。網を下ろす。
次の瞬間、ぐっと重みがかかった。
「……なんだこれ!」
シモンが叫ぶ。「おい、引け!引けって!」
アンデレも驚きながら網をたぐる。「多すぎる……!」
魚が暴れ、網が軋み、裂け始める。
「やばい、破れるぞ!おーい、こっち来い!」

少し離れたもう一艘の舟。
ヤコブが顔を上げる。「シモンの声だ。」
ヨハネが鋭く目を細めた。「ただ事じゃないな。行くぞ!」

舟を寄せると、光景に息をのんだ。
「……なんだよこれ。」ヨハネが当惑して低くつぶやく。
ヤコブもすぐに加わる。「話はあとだ、引き上げるぞ!」
皆で必死に網を引く。魚はあふれ、舟は沈みかける。冷たい水が足元に入り込む。
そのただ中で、シモンはふと手を止めた。
震えるまま、イエスの前にひれ伏す。
「……俺から離れてください、主よ。俺は、罪深い人間なのです。」
イエスは静かに言った。
「恐れることはありません。これから後は、あなたは人々を生きたまま捕るのです。」
そして、さらに言った。
「私に付いてきなさい。魚ではなく人を集める漁師にしてあげましょう。」

やがて大漁の魚を積んだ二艘の舟は、お互いやや離れた岸辺に舟を着けた。
シモンは顔を上げる。迷いはなかった。
「……行きます。」
「俺も。」ヤコブも答える。
二人は直ちに網を捨てて後に従った。

イエスはそこから少し歩いていき、少し離れた場所に着いた二人の兄弟、ヤコブとその兄弟ヨハネを目にした。
二人は父親のゼベダイと舟にいて、舟の中で網の手入れをしていた。
イエスはすぐに二人を呼んだ。二人は、父親のゼベダイと雇われ人たちを残して後に従った。

こうして、四人とも、舟を陸に戻し、一切のものを捨ててイエスの後に従った。
それから一行は湖畔からカペルナウムの中心へと足を進めた。

安息日になるとすぐイエスは会堂に向かった。
会堂に入ると、冷えた空気の中に人々のざわめきが満ちていた。
イエスは迷いなく前に進み、静かに語り始める。

人々は、静かに耳を傾けていたが、やがて互いに顔を見合わせ始めた。
「……あれ?」
「今の、どのラビの言葉だ?」ひそひそと声が広がる。
「いや、誰の引用もしてないぞ。」
「普通は、“あの先生がこう言っている”って話すだろ…?」
当時、律法を教える際には、有名な“ラビ”と呼ばれる教師たちの言葉を引用し、それを権威として語るのが当たり前だった。
人々も、それを聞くことで「正しい教えだ。」と判断していた。

だが――

「この人…違う。」「用いるのは律法そのものだけだ。」
「それを、自分の言葉で解説してる…いや、違うな。」
別の男が小さく首を振る。「まるで、最初から知ってるみたいに話してる。」
前の方にいた者が思わずつぶやいた。「……神から権威を授かったかのようだ。」
ざわめきは次第に確信へと変わっていく。
彼らは気づき始めていた。
――これは、人間の解釈に基づく教えではない。
神の言葉そのものに根ざし、まるで、まるで、神ご自身の言葉をそのまま語っているような――
そんな権威が、この人にはあるのだと。

その時だった。
群衆の中から、突然ひとりの男が叫び声を上げた。
「ナザレのイエス!我々と何の関係がある!」
ざわめきが一瞬で凍りつく。
「我々を滅ぼしに来たのか!?お前の正体は知ってるぞ、お前は…神の聖なる者だ!」
皆の目がその男に注目した。――目は焦点を失い、体は自分のものではないかのように引きつっている。
「……取りつかれてるのか。」ヤコブが険しい顔でつぶやく。
アンデレも小さくうなずく。「ああ…あの様子は普通じゃない。」
誰もが気づいた、これは、ただの取り乱しではない――この男は、悪霊に支配されているのだと。

しかしイエスは静かに男を見据えた。
「黙りなさい。その人から出なさい!。」
次の瞬間、男の体が大きくのけぞり、床に叩きつけられる。激しく震え、叫び声が会堂に響いた。
「うわっ…!」人々は恐怖を抑えきれない。

やがて男は静かになり、何事もなかったかのように横たわった。
傷ひとつない。
「何だ今のは…!」「出て行けと言っただけで、その通りになったぞ。」
「悪霊まで従うのか…!」「これは、新しい教えだ!。」

この出来事は一気に町中へ広がっていった。
そしてやがて、ガリラヤの隅々にまで――波紋のように伝わっていくのだった。

夕方、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家へ向かった。
日が傾き、初冬の空気はいっそう肌に刺さるようだった。
「さあ、こっちだ。」ペテロが先に立つ。「俺の家だ。」
家に入ると、すぐにただならぬ空気が伝わってきた。
シモンのしゅうとめが、高い熱にうなされ、床に伏していたのである。

「先生…助けてください。」
「ひどい熱なんです。」
人々の声は切実だった。そのことはすぐにイエスに伝えられた。
イエスは静かにうなずき、彼女のそばへ歩み寄る。
そしてその熱に向かって言った。
「去りなさい。」そっと手を取り、起こす。
すると、あれほど苦しんでいた熱がすっと引いた。
ペテロが目を見張る。
アンデレも驚いたように息をのむ。「もう顔色が戻ってる…。」
しゅうとめは身を起こし、そのまま何事もなかったかのように動き出した。
そして、皆をもてなし始めた。

夕方になり、一日が終わろうとしていた。もうすぐで安息日が終わる――
やがて日が沈むと、待ち構えていたかのように、人々が次々と集まってきた。

「今なら連れて行ける!」
「急げ、先生のところへ!」

病気の者、悪霊に取りつかれた者――大勢の人が戸口の前に押し寄せる。
ペテロが苦笑する。「なんだよこれ…町中じゃないか。」
アンドレは目を丸くして見つめる。「いや…これ、止まらないぞ。」
イエスは一人一人に手を置き、さまざまな病気の人をすべて癒していった。
その言葉ひとつで、多くの悪霊も追い出されていく。

これらのことは、預言者イザヤを通して語られていた言葉が成就するためであった。
こう書かれている。

悪霊たちは人々から出ていくとき、「あなたは神の子です」と叫んだ。
だがイエスはそれを厳しく戒め、語ることを許されなかった。
彼らがイエスこそメシア〈χριστός〉であると知っていたからである。

挿絵・ビジュアル制作には、ChatGPT および Google Gemini を使用しています。

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