―イエスの最期、杭に掛けられた犯罪人と「パラダイス」の約束
Ⅱ 救われるためなのか、救われたからなのか
イエスは、「最後まで耐え忍ぶ人が救われる」(マタイ24章13節)と言われた。
クリスチャンとして生きるには、確かに努力が必要である。
イエスの言葉を学ぶ。人を愛する。赦す。悪を避け、善を行う。神の意思を求める。
こうした生き方には、忍耐が伴う。
わたしは長年、それを「救いを得るために必要なこと」だと考えてきた。
「最終的な救い――神の家族、神の民となること――を得るためには、忠実に忍耐し続けなければならない。」そう教えられてきたからである。
しかし、ここで一度立ち止まって考えてみたい。
わたしたちが生き方を変えていくのは、それが
「救われるために満たさなければならない条件」だからなのだろうか。それとも、
「救われた結果として生じるもの」なのだろうか。
「結局、最終的に救われるためには、クリスチャンとしての生き方が求められるのだから、同じことではないか」そう感じるかもしれない。けれども、わたしは、この二つには大きな違いがあると思う。
神との関係性が、まったく違うのだ。
たとえば、帰化によって国籍を取得する人を考えてみたい
ある国に帰化したいと願っている外国人がいたとする。仮に「神仁迎子」さんとしよう。
その国の国籍を取得するためには、一定の条件を満たし、模範的な生活を送ることが求められる。
迎子さんは、その国で暮らしながら、将来正式な国民になることを目指している。
国民と同じように義務を果たしていても、彼女自身は、まだ「その国の国民になった」という確かな身分を持っているわけではない。
国民としての権利や栄誉は、将来に待ち受けている。
これは、まさに「国民になるために、国民としてふさわしい生き方をしなければならない」という状態である。
一方、もし「ここで一生暮らしたい」という意思さえ持っていれば国籍を与えられる国があったとしよう。
迎子さんは「ここで一生暮らしたい」という意思を持って、その国に足を踏み入れてたその時から、その国の国民となる。
当然、国民としての義務や責任を担うことになる。
税金を納め、法律を守り、社会の一員として貢献していこうとするだろう。
しかし、それは「国籍を得るために、模範的な人間であることを証明し続けなければならない」からではない。
すでにその国の一員となったことを喜び、その国を愛し、そこに住み続けたいと思うからこそ、そのように生きるのではないだろうか。
神の国の民となることも、これに似ているのではないだろうか。
興味深いことに、ヨハネ1章12節にはこうある。
「しかし、彼を受け入れた者たち、すなわち彼の名を信じている者たちには、神の子供となる権利を彼は与えた。」
救われるための必須条件とは
救われるための必須条件として、必要最小限の例が、まさにこのエピソードなのではないだろうか。
あの犯罪人の言葉の中には、イエスをして「今日、あなたは私と共にパラダイスにいるでしょう」と言わしめたものが、すべて詰まっているのではないだろうか。
「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ裁きの中にいるというのに。
そして私たちが受けているのは、確かに正当なものだ。私たちは、自分たちが行ったことにふさわしいものを受けているからだ。
しかし、この人は何も不正なことを行っていない。」
そして、イエスにこう願った。
「イエスよ、あなたがあなたの王国に来られるとき、私を思い出してください。」
彼は、神を恐れていた。
自分の罪を認めていた。
イエスには罪がないことを認めていた。
そして、イエスを王として認め、自分をその方に委ねた。
これが、その時の彼にできたことのすべてだった。
それに対してイエスは、「今日、あなたは私と共にパラダイスにいるでしょう」と言われた。
もちろん、だからといって「一度救われたのだから、その後は何をしてもよい」ということではない。
イエス自身、「最後まで耐え忍ぶ人が救われる」と言われている。
クリスチャンとして歩み続けることには、確かに忍耐が必要なのだ。
ただ、わたしは、その意味を以前とは違う形で受け止めたい。
「救われるために最後まで忠実でいる」のではなく、
「救われた者として、最後まで忠実に歩みたい」。
この違いは、とても大きい。
前者には、「忠実でいなければ、救いを失ってしまう」という恐れがつきまとう。しかし後者には、
「すでに与えられた救いに感謝して、この方と共に最後まで歩みたい」という思いがある。
わたしは、そんな信仰を持って生きていきたい。
脚注
σταυρός〈σταυρός〉は、もともと杭・柱を意味する語であり、ローマ時代には磔刑に用いられる処刑具を指した。「十字架」という訳語は後世のキリスト教的伝統を反映したもので、語そのものが十字形を意味するわけではない。


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