第6話|メシアの前触れとなる子【はじまりに還る路】

小説

第一章 メシアの誕生

第一節 西暦前三年

第一項 春

メシアの前触れとなる子

時は西暦前三世紀、ローマ帝国のアウグスツス(ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス)がローマ帝国の初代皇帝となり不動の支配者となってから三十年ほど経ったときのことである。
ユダヤの地においては、オクタウィウスに忠節を誓い、見返りとしてユダヤの王として正式な承認を勝ち得たヘロデが今や絶大な権力を行使していた。

神の神殿があるエルサレムにほど近いユダヤの山岳地方の都市に、一組の夫婦が住んでいた。
夫の名はゼカリヤといい、妻の名はエリサベツで、共にアロンの家系の血筋であった。二人は、神のおきてと法的な要求を守り、神のみまえにあって正しい人であった。

ところで、この二人には子どもがいなかった。当時のユダヤ人社会において、子どもの有無はきわめて重要な意味を持っていた。というのも、イスラエル建国以来、神に忠実であるなら子孫を増やし祝福する、という神の約束があり、それはモーセ五書にも記されているからである。子どもは神からの報いと考えられていた時代にあって、彼らは、とくにエリサベツはどんなに子供を授かることを待ち望んでいたであろう。しかし、すでに二人とも高齢であった。

夫のゼカリヤは祭司であり、アビヤの組だった。遡ること千年余り前、ダビデ王の時代、ダビデは祭司を家系ごとに二十四の組に分けた。そして、その第八の組を率いるようくじで選ばれたのがアロンの子孫であるアビヤ氏族であった。バビロン捕囚後、帰還できた祭司の家系は二十四組すべて揃わなかったが、制度としての「二十四組」は廃止されなかったようである。それで、西暦前三年当時においては、「アビヤの組」で奉仕するよう割り当てられていたことが、必ずしもアビヤの子孫であることを意味するわけではなかったようだ。

さて、それぞれの組は、ダビデの時代においては六カ月(二十四週)ごとに一週間エルサレムの聖なる所で奉仕したと記録されている。しかし、一世紀当時においては、ラビ(ユダヤ教の律法学者)の伝承によると、祭司たちの数が大変多かったので、週の奉仕は組を構成していた様々な家族の間で分割され、個人としては、各家族の人数に応じて一日ないしはそれ以上の日数の奉仕が割当られていた。

一世紀当時の祭司の人数であるが、バビロン捕囚より帰還した際のエズラの記録によれば、各組の祭司の数がそれぞれおよそ一千人ほどであったこととのことなので、仮に一世紀においても各組一千人ほどの祭司がいたとしたら、総勢二万四千人ほどになろうかと思われる。

ところで、祭司の職務の一つに神殿の香の祭壇で、毎日朝と夕方に香をたくというものがあった。香をたくことは神殿での毎日の奉仕の中で最も誉れあることと見なされていたが、年に一度の贖罪の日に大祭司が行うこととされていたのは別にして、その他の日については下位の祭司であっても勤めが回ってくることがあった。
この奉仕を誰がするのかは、ラビの伝承によれば、くじ引きで決めたようだが、まだその奉仕を行ったことのない祭司がいる場合はその者が優先された。つまり、一巡するまでは、再度自分に香をたく職務が回ってくることはなかったのである。
したがって、毎日この勤めがあったとはいえ、祭司の全員がこれに携わる機会があったことからすれば、単純に考えて一巡するのに六十五年ほどかかる。つまり、この栄誉を得るのは生涯で一度だけだったかもしれない。

そんな重要な勤めが、とうとうゼカリヤにも回ってきた。季節は春、ペンテコステの祭りの後、小麦の収穫も終わり暑さが増してくるころである。ゼカリヤは、祭司職のしきたりに従って、香をたくために神の聖なる所に入った。
香がたかれている間、民は聖なる所の外で祈ることを常とし、大勢の人が集まっていた。

ゼカリヤが香を捧げようと進んでいくと、神の天使がゼカリヤの前に現れて香の祭壇の右側に立った。 ゼカリヤはそれを見て動揺し、恐れの気持ちに襲われた。しかし天使は言った。


「恐れることはありません、ゼカリヤ。あなたの祈りは聞き届けられたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。その子をヨハネと名付けなさい。あなた方には喜びと幸せがもたらされ、多くの人がその誕生を喜ぶでしょう。なぜなら、彼は主〈κυρίου〉の前において大いなる者となるからです。そして、彼はぶどう酒や強い酒を一切飲みません。すでに母の胎内にいるときから聖霊〈πνεύματος ἁγίου〉に満たされているからです。そしてイスラエルの多くの人を主〈κύριον〉なる神のもとに〈τὸν θεὸν〉立ち返らせます。
そして彼自身が、彼[主]の前に先立って進んで行きます。エリヤの霊と力において、父たちの心を子らへと立ち返らせるため、また、不従順な者たちを義なる者たちの思慮へと立ち返らせるため、主のために〈κυρίῳ〉、備えられた民を整えるためです。」

ゼカリヤは天使に言った。「そのようなことをどうして信じられるでしょうか。私は年ですし、妻もかなり年を取っています」。
天使は答えた。「私はガブリエル。神〈θεός〉の前に立つ者です」

エゼキエルは驚愕した。ガブリエル!なんと、ガブリエルとはあのガブリエルか?!かつて、預言者ダニエルの前に現れ、二度目に現れた際は、人々が待ち望んでやまない、メシアに関する予言を与えたという・・・。
そう、こんな予言である。

「あなたは知り、そして悟らなければならない。エルサレムを修復して建て直せという命令が出されてからメシアなる君主に至るまで、七つの週があり、また六十二の週がある。」

かつて、人間の姿で地上に現れた天使は何人がいるが、自分の名前を明らかにしたのはこのガブリエルのみである。その高位の天使が今、目の前にいるのだ。ガブリエルは続けた。

「私はあなたに向かって、この良い知らせを告げるために遣わされました。さあ、その結果を見なさい。これらのことが起きる日まで、あなたは口が利けなくなり、話すことができません。それは、あなたが私の言葉を信じなかったからです。これらは、それぞれ定められた時に成就するのです」。

一方、人々はゼカリヤをずっと待ちわびていたが、彼が神殿の中に長くこもっているので困惑していた。
ようやくゼカリヤが出てきたので、人々は彼に駆け寄って何があったのか尋ねたが、彼は語ろうにも語ることができず、身振り手振りをするのみで、口を利くことができなかった。それで、人々は、彼が聖所内で幻―オプタシア〈ὀπτασίαν〉視覚的啓示―を見たのだと悟った。

それから、ゼカリヤは務めの期間が終わったので家に帰った。そののち、ガブリエルの予告のとおり、エリサベツは妊娠した。五カ月のあいだ静かに身を隠しながら、彼女は喜びに満ちてこう言った。
「主〈κύριος〉が、わたしにこの恵みを施してくださいました。人々の間で負っていた恥を、ついに取り除いてくださったのです。」

挿絵・ビジュアル制作には、ChatGPT および Google Gemini を使用しています。

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