プロローグⅣ 抗争の中で埋もれる道
さて、このころすでに祭司たちは民に対する霊的かつ社会的な指導権を握っていたことは先に述べたとおりである。本来彼らは、律法を教え、裁きを行う責務を神から委ねられていた。しかし、現実には、政治的・経済的にエルサレムで最も有力かつ富裕な階層を形成し、その貴族化が進んでいた。その結果、民を導く牧者としての役割は次第におろそかにされていった。
こうした状況は、律法の教授や裁判といった本来祭司が担うべき働きが、祭司以外の人々によって行われるようになることを助長した。つまり祭司に取って代わる新たな仕組みが形づくられつつあったのである。
こうしてユダヤ社会の内部では、信仰理解や律法の捉え方の違いから、いくつものグループが形成され、次第に様々な派へと分かれていった。
その中でも代表的なのがパリサイ派である。彼らはマカベア戦争期に現れたハシディーム(敬虔派)の流れをくむ人々から発展したと考えられている。
彼らは祭司団に対する不信の念から、一般の人も自らを祭司と同様に聖なる者とみなせると主張し、その根拠を「伝承」という形で定めるようになった。
モーセの律法によれば、宗教上の主要な権威と教育は、アロンの子孫である祭司たちに委ねられていた。したがって、本来であれば、祭司でない者が律法を教え、解釈の権威を持つことは認められていなかったはずである。
ところが彼らは自分たちの見解を正当化するために、すでに存在していた口頭伝承を集め、聖書の言葉の背後にある意味を読み取るための新たな解釈方法を用いるようになった。こうして彼らは独自の伝承と解釈体系を築いていったのである。つまり彼らは、神は文字と口頭により二重の律法をイスラエルにお与えになったと主張し、よって、口伝律法も成文律法と同様に権威と拘束性があるとし、自分たちは律法学者として祭司に代わって律法の解釈や裁判を行えるとしていた。
もう一つの主要な派はサドカイ派である。彼らは主に裕福な上流階級の人々から成り、実に、祭司のほとんどはサドカイ派に属していた。
彼らは、パリサイ派の主張する口頭の律法の存在を否定し、成文の律法のみを権威あるものとしていた。また、大祭司職は本来、祭司ザドクの家系に属する者が継ぐべきだと主張していた。
サドカイ派の主な信条としては、霊魂不滅や死者の復活、天使の存在を認めないこと。また、運命の作用を否定しており、人の身に起こる出来事はすべて当人の行動の結果であると考え、パリサイ人の信条も退けていた。
これらに加えて、エッセネ派と呼ばれるグループもあった。この派も同じ時期に形成されたと考えられている。彼らは公式の祭司職を退け、神殿での礼拝や犠牲に参加することを拒んだが、律法そのものにはきわめて厳格に従っていた。
エッセネ派は共同生活を営み、財産を共有し、厳しい規律のもとで禁欲的な生活を送っていたと伝えられている。また、魂の存続や終末的な救いを重視するなど、その信条には当時広まっていたギリシャ思想と共通する要素も見られる。
世俗社会から距離を置いていた点で他の宗派とは異なるが、律法の厳格な解釈や敬虔さという面では、パリサイ派と共通点も多いとされている。
その後時代が進んで西暦前三十七年ごろになるとヘロデ一族による支配を推し進める愛国的な派であるヘロデ党というものが生じた。ユダヤ教の中では少数派の部類であったとはいえ、多くの祭司がこの派に心を向けていたと言われている。
これらが、西暦一世紀に至るまでに存在したユダヤ教の主な派と言える。
とはいえ、こうした派の形成は指導者層を主体とした動きであり、一般民衆の多くは、特定の派に属していたわけではなかったようである。
事実、一世紀当時、これらの各派に属していた人々は、社会全体から見れば少数であった。パリサイ派は約六千人、エッセネ派は成人男性だけで四千人ほどとされている。サドカイ派については正確な人数は分かっていないが、主として裕福な支配層や祭司階級に限られていたため、その数は比較的少なかったと見られる。また、ヘロデ党派も少数派であった。そのため、これらすべてを合わせても、当時のユダヤ人全体の中で占める割合は、七%に満たなかったと考えられている。
いずれの派にしても一般民衆のことは置き去り状態であった。
さて、ヘロデ党派が熱烈に支持していたヘロデ一族が、ユダヤを支配するに至った経緯は次のとおりである。
話を、マカバイ戦争当時に戻そう。
異教の崇拝によって汚されたエルサレムの神殿が、ユダ・マカバイの活躍によって西暦前百六十五年に回復し、ユダヤ人は宗教的自由を勝ち取ったわけであるが、ユダ・マカバイはさらに政治的独立を目指し、セレウコス朝の支配を排除する戦いのための支援を求めてローマと盟約を結んだ。
戦いの最中、ユダは西暦前百六十年に戦死したが、戦いはその兄弟たちが引き継いだ。この時期に台頭したのが、ユダの弟ヨナタンである。
彼はセレウコス朝内部の権力抗争を巧みに利用し、同朝の支配者たちと接触を重ねることで、自らをユダヤの大祭司、さらには事実上の支配者として承認させることに成功した。こうしてヨナタンはその地位に就いたが、この措置はユダヤ社会内部に強い反発を引き起こした。というのも、律法によれば大祭司職はアロンの家系の者であり、さらに伝統的に大祭司職を世襲してきたザドクの血筋に属する者が担うべきものとされていた。ちなみに、ザドクとは、ダビデの王権を忠実に支持し、のちにソロモン王によって大祭司とされた人物である。
この点、ハスモン家は一般祭司の家系ではあったが、その系譜をアロンにまで遡って実証する史料は存在しない。少なくとも、ザドク系ではなかった。そのため彼の就任は、大祭司の正統性をめぐる論争を引き起こした。
その後、紀元前百四十二年、ヨナタンがシリア側の陰謀に欺かれ、捕らえられて殺されると、その弟シメオン(彼はマカベア家の兄弟たちの最後の人であった。)が後を継いだ。
そのわずか一年後の西暦前百四十一年、ついに彼の率いるユダヤのハスモン朝は、セレウコス朝からの政治的独立を勝ち取った。さらにはローマからも承認を受けて、同国との同盟関係を更新し、ついに国際的な承認を得るに至ったのである。
これには、ユダヤ人の指導者層もシメオンを支配者ならびに大祭司として受け入れざるを得なかった。
こうしてハスモン家は大祭司職を事実上簒奪し、マカバイ家の一族による独立政権、すなわちハスモン朝が確立された。
たしかに、メシアの到来以前の時代において、マカベア家が神殿における崇拝を再確立した功績は大きいと言えよう、しかし実際には、ダビデ家の王ではなく、ザドク系でもない政治家肌の祭司たちによる支配に、人々の不満は次第に高まっていった。この支配は、神の祝福を体現するものとはとうてい言えなかった。人々の祭司職に対する信頼は回復することはなく、むしろ、かつてのヘレニズム化された祭司たちと同様、いやそれ以上に、ハスモン家の支配下でなおいっそう揺らぐこととなった。
当然その支配は安定したものとはならず、内紛を繰り返した末、ついにローマが介入し、エルサレムがローマ軍に占領される。時に紀元前六十三年のことである。
紀元前六十三年、ローマ人はエルサレムを急襲した。当時ハスモン家の兄弟ヒルカノス二世とその弟アリストブロス二世は王位継承を巡って内戦状態にあったが、ローマの将軍ポンペイウスはこの争いに介入し、兄であるヒルカノス二世をユダヤの支配者として任命した。
しかし、ヒルカノス二世は独立した王ではなく、あくまでローマの属国的支配者(エトナルケース)という立場に置かれることとなった。つまり、ローマ人の助けによって支配し、ローマ人の好意と支持がなければ王位を保てない者となったのである。国内の事柄は自分の思いどおりに統治できたとはいえ、外交面ではローマの政策に従わなければならなかった。
こうして、およそ八十年間続いたハスモン家による独立した支配は終わりを迎えたのである。
そこで頭角を表してきたのがイドマヤ人のアンティパトロスという人物で、後のヘロデ大王の父である。
アンティパトロスは、意志薄弱であったヒルカノス二世を支える陰の実力者となっていた。彼は、不穏な動きを見せるユダヤ人の諸党派を巧みに抑え込み、やがてユダヤ全体を実質的に支配下に置いたのである。
紀元前四十八年、アンティパトロスはエジプトで敵と戦っていたユリウス・カエサルを援助した。この功績により、彼はローマから恩顧を受け、紀元前四十七年、ローマ直属の行政長官(プロクラトール)の地位に昇格した。
その後、アンティパトロスは自らの権力基盤を強化するため、自分の息子たちを各地の総督に任命した。
ファサエルをエルサレムの総督に任命し、ヘロデ(後のヘロデ大王)をガリラヤの総督に任命した。
当時二十五歳であったヘロデは、総督に就任すると直ちに行動を起こし、
自らの管轄地域に出没していた盗賊の集団を次々と排除するなど、この迅速かつ断固とした統治は、ユダヤ人からもローマ人からも高い評価と称賛を受ける結果となった。
ヘロデは父の教えに従い、あらゆる行動においてローマの承諾が不可欠であることを十分に理解していた。彼は在任中を通じて、後ろ盾であるローマの要求と、臣民であるユダヤ人の要求の双方に巧みに対応し、卓越した統治手腕を発揮した。
西暦前四十三年、父アンティパトロスが政敵によって毒殺されると、ヘロデはユダヤにおける最高権力者となった。しかし、ヘロデに敵がいなかったわけではない。エルサレムの特権階級は、ヘロデがハスモン王朝の生き残りから権力を強奪したとみなし、ローマを動かして彼を解任させようとした。遡ること二十年前のほど前西暦前六十三年当時、ローマがハスモン家の王位継承争いに介入し、その処理に不満を抱く者が少なからずおり、王位争いに敗れた側の人々は、失われた権力を取り戻そうとして機会をうかがい続けたのである。
ついにその機会は西暦前四十年におとずれた。ローマでの内戦による混乱に乗じ、ローマの宿敵であったパルチア人助けを得てシリアからユダヤへ侵攻し、ローマが据えたヒルカノ二世を退位させ、ハスモン家の反ローマ派の一人を王に据えることに成功したのである。
この事態を受け、ヘロデはローマへ逃れた。
これはローマにとって朗報であった。ローマ人にとって、パルチア人をユダヤから追い出し、その地域の支配権を取り戻すことは悲願であった。そのためにはユダヤに都合のよい支配者を立てることが必要であり、そのために信頼できる協力者を必要としていたのである。まさにヘロデは適任者であった。彼はローマで厚遇され、元老院から信頼を得た。
こうして西暦前四十年、ローマ元老院は時の三頭政治の一人マルクス・アントニウスの主導のもとヘロデをユダヤの王に任命した。ヘロデは、この権力を維持するために多くの妥協を受け入れた。その象徴として、元老院からユピテル神殿まで行列の先頭に立って進み、異教の神々に犠牲を捧げた。その後ローマ軍の支援を受けてユダヤへ戻ったヘロデは、次々に敵対勢力を打ち破った。
三年後の西暦前三十七年、ついにヘロデはエルサレムを制圧し、王位を確立した。
彼は反対者たちには容赦なく報復し、ハスモン家とその支持者であったユダヤ人の特権階級を抹殺した。さらに、「ローマの友」による支配に反発する者を徹底的に排除した。こうして、反ヘロデ派の企ては失敗に終わった。
西暦前31年、オクタウィウス(後のアウグスツス)がアクティウムでマルクス・アントニウスを撃ち破ると、ヘロデはマルクス・アントニウスとの長年の交友関係が問題視されると思い、急いでオクタウィウスのもとに行き、全面的な忠節を誓った。この、政局の転換を即座に見抜き、忠誠の相手を切り替えることに躊躇しない現実主義な態度と実務能力を、ローマの新しい支配者であるオクタウィウスは高く評価した。彼は、ヘロデをユダヤの王として正式に承認し、ヘロデの領地を拡大した。
この柔軟さこそが、ヘロデが長期政権を維持できた最大の理由である。
本作に引用されている聖書の言葉・表現の着想は、King James Version(1769)、 SBL Greek New Testament(© Society of Biblical Literature, CC-BY 4.0)およびWestminster Leningrad Codex をもとにしており、翻訳補助に Google 翻訳等の機械翻訳ツールを使用しています。
挿絵・ビジュアル制作には、ChatGPT および Google Gemini を使用しています。
© 2026 Yurika Shiohara
Text and illustrations
by Yurika Shiohara


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