第26|人の子、御国告げる旅始まる【はじまりに還る路】

小説

第三章 西暦三十年

第三節 冬

第二項 人の子、御国告げる旅始まる

冷たい空気が残る早朝、まだ空は群青のまま。
湖畔は冷気に包まれ、水面に薄い霧が静かに漂っていた。
そこで、ひとり静かに祈っている男性がいた。――イエスである。
イエスは人々の眠りの中にいるうちに起きて外へ出、この静寂に包まれた場所に来ていた。

一方、シモンの家。
シモンが目を覚ました。周りを見回し「いない…?」とつぶやく。
「先生を見なかったか?」「いや、今朝は見ていないな・・」「家の中にはいないぞ。」「探そう、俺たちで」
弟子たち四人は足早に外へ出て、イエスの名を連呼する。
やがて近所の人々も巻き込んで、皆がイエスを捜し始めた。

ほどなくして、シモンたちがイエスを見つけた。「先生、みんなが捜しています!」
イエスは振り向き、穏やかに答えた。「そうですか。どこかほかの所、近くの町に行きましょう。そこでも伝道するためです。」
群衆も、イエスのいる所に押し寄せ、自分たちの所から去っていくのを引き留めようとした。
しかし、イエスは言った。「他の町々にも、わたしは神の王国の良い知らせを告げることが必要です。なぜなら、このことのために、わたしは遣わされたのです。」

こうして、イエスはガリラヤ地方の町から町へと進み、会堂に入っては神の王国の良い知らせを語り、人々の病を癒やしていった。少し前に召されたシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネもその後に従う。

いよいよ旅の始まりである。これが第一回目の伝道旅行となった。

会堂では、人々が見守る中、イエスは王国の良い知らせを伝えた。苦しむ者の痛みは取り去られ、邪悪な霊に縛られていた人々も解き放たれていった。

やがてその評判は北のシリアにまで広がり、各地から人々が押し寄せてきた。
「あの方が癒やしてくださるらしいぞ」「俺の家族も連れていこう」――そんな声が道々にあふれる。
ヤコブが群衆を見て言う。「すごい数だな…!」
ヨハネも目を細める。「でも、全部向き合っていくんだろうな」
運ばれてくるのは、重い病に苦しむ者、体の自由を失った者、発作に倒れる者、そして悪霊に取りつかれた者たち。イエスはその一人一人に向き合い、すべてを癒やした。
こうして人々は、ガリラヤからデカポリス、エルサレムやユダヤ、さらにヨルダンの向こうからも集まり、大きな流れのようにイエスの後に従っていった。

さて、キスレウの月といえば、献納の祭り――ハヌカの時期である。
ハヌカとは、汚された神殿が清められ、再び神にささげられたことを記念する祭りである。
その期間、人々は家ごとに灯りをともした。
その光は、聖さの回復を象徴するとともに、闇の中にあっても神が民を再び本来の状態へと回復させるという希望を思い起こさせていた。

そんな時節のころである。イエスがある町にいた時のこと、全身を重い皮膚病に覆われた男性が、人々の間をかき分けてイエスの前に出た。
男性は地にひれ伏し、震える声で言う。「主よ、もしあなたが望まれるなら、私を清くすることがおできになります。」
周囲が息をのむ中、シモンが思わずつぶやく。「おい、触れたらまずいだろ…」
しかしイエスはその男性を見つめ、その苦しみ――病そのもの、隔てられてきた日々、その重さすべてに向けるような強い思いを胸に、手を伸ばした。「わたしは望みます。清くなりなさい。」
その瞬間、男性の皮膚はみるみるうちに元に戻った。闇の中に灯された光のように一瞬で彼の全身が新しくされ、人々は、失われていた清さの回復を目の当たりにした。

そんな中、イエスはその男性に厳重に言った。「誰にも話してはいけません。ただ、祭司のもとへ行きなさい。あなたの清めについて、モーセが命じたものをささげなさい、彼らへの証しのためです。」
おそらく、イエスは自分がキリストであることを、奇跡に関する派手なうわさではなく、しっかりした証拠に基づいて人々に確信してほしかったのであろう。まさに、この預言を具現化していたのである。

しかし男性は町を出ると、喜びにあふれて語り始めた。「俺は癒やされたんだ!」その声は広がり、人々は次々とイエスのもとへ押し寄せた。
「どんどん増えてくな…」とヤコブが言い、ヨハネも周囲を見渡す。「来る人が止まらない。」
やがてイエスは町の中にとどまれなくなり、外の静かな場所に身を置いた。それでも人々は各地から集まり、言葉を聞き、癒やしを求めてやって来る。
イエスは押し寄せる人々を避けることはしなかった。しかし、しばしば人けのない場所へ行っては、静寂の中で祈っていた。

しばらく静かな町に滞在していたイエスは、数日後、舟に乗って対岸へ渡り、再び自分の町カペルナウムへ戻って来た。そうしたある日のこと、イエスが家にいることはすぐに知れ渡った。
「まだ人が集まってきてるな…」とシモンが外を見てつぶやく。
「もう、中には入れないぞ」とアンデレが困ったように戸口から中を見渡す。
その戸口の辺りにも人が押し寄せ、もはや入り込む隙がなくなるまで、そう時間はかからなかった。

イエスが神の言葉を語り始めた。
部屋の中には、ガリラヤやユダヤ各地、さらにはエルサレムから来たパリサイ派や律法の教師たちも座り、じっと様子をうかがっていた。主〈κύριος〉の力が、彼をして癒やすためにあった。冷たい外気とは対照的に、室内は人いきれでかなりの熱気を帯びている。

その時だった。外のざわめきが一段と強くなる。四人の男が、体のまひした一人の男性を担架に乗せて運んできたのだ。
「空けてくれ!」と戸口付近から声が上がる。しかし、人垣はびくともしない。
「無理だ…ここからじゃ入れない」
男たちは顔を見合わせると、すぐに決断した。家の外側から屋根へと上り、イエスのいる辺りの瓦をはがし始めた。乾いた音が冬の空気に響く。やがて開いた穴から、担架ごとその男性がゆっくりと下ろされていく。
突然の出来事に、人々は息をのんだ。イエスはその様子を見上げ、そして彼らの信仰を見て、まひした男性に静かに語りかけた。
「安心してください。あなたの罪は赦されています。」

その言葉に、律法学者たちの間に緊張が走る。彼らは顔を見合わせ、心の中でつぶやいた。
――この人はなぜこんなことを言うのか。神以外に、誰が罪を赦せるというのか。神しかなしえないことを言うなんて・・・、これは冒瀆ではないか。
イエスはその思いを見抜き、こう問いかけた。
「なぜ、そのような邪悪なことを心の中で考えているのですか。『あなたの罪は赦されている』と言うのと、『起きて、あなたの寝床を取り上げて、歩きなさい』と言うのと、どちらが簡単ですか。」
一瞬の沈黙ののち、イエスは続けた。
「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることをあなた方が知るために――」
そして、まひした男性に向かって言った。
「あなたに言います。起きて、寝床を取り上げて、家へ帰りなさい。」
次の瞬間だった。男の体が動いた。彼はそのまま立ち上がり、周囲からどよめきが起こる。そして、すぐに自分の担架を抱え、驚きと喜びに満ちた顔で、人々の間を神をたたえながら歩き、家に戻っていった。
人々は皆、圧倒されていた。神をたたえながら、口々に言う。
「なんだ今のは…!本当に立ち上がったぞ…!」
「あり得ない…あの人、さっきまで動けなかったのに…!」
「こんなこと、今まで一度も見たことがない…!」
「このような権威を人に与えられるなんて…!神よ感謝いたします!」
「…あの方は一体、何者なんだ…」
「今日は…本当に、不思議なことを見た…」

開け放たれた戸口から冬の澄んだ空気が流れ込んでくる。その場にいたすべての者が、目の前で起きた出来事の重みと、そこに現れた権威に深い畏れを覚えていた。

挿絵・ビジュアル制作には、ChatGPT および Google Gemini を使用しています。

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