救われるために、何をしなければならないのか 〔その③〕

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―イエスの最期、杭に掛けられた犯罪人と「パラダイス」の約束

3 信仰と救い――行いによって完成された信仰が必要なのか

①悔い改め――それは「正しい生活を送ること」まで含むのか

今、私は喜んでいます。
あなた方が悲しんだからというのではなく、あなた方が悔い改め〈μετάνοιαν〉へと悲しんだからです。
というのも、あなた方は神〈θεόν〉に従って悲しんだからです。
それは、あなた方が私たちによって、何の点においても損害を受けることがないためでした。

なぜなら、神〈θεόν〉に従った悲しみは、後悔することのない救いへ至る悔い改め〈μετάνοιαν〉を生み出すからです。しかし、世の悲しみは死を生み出します。

見よ、まさにこのこと、すなわち神〈θεόν〉に従って悲しんだことそのものが、あなた方のうちに、どれほどの熱心さを生み出したことでしょう。
そればかりか、弁明、憤り、恐れ、切望、熱意、そして処罰を求める思いを生み出しました。
あなた方は、あらゆる点において、その事柄について、自分たちが純潔であることを示しました。
――コリント第二 7章9–11節

この聖句からすると、「救いに至るには悔い改めが必要」と読み取れる。
では、「悔い改め」とはなんなのだろうか。

「悔い改め」いうからには、悔いるだけではなく、「これまでの悪い生活を改め、その後は正しい生活を送ること」が必須だとよく言われる。「改める」という言葉からそう連想されるし、その説明は筋が通ているように思える。

ここで、原語を調べて見ることにした。
原語のμετάνοια(μετάνοιαν)〈メタノイア〉は、
μετά(変化・転換)と νοῦς(思い・理解・心)に関連する語であり、
基本的には「思いを変えること」「認識を変えること」を表す。
つまり、これまでとは違う方向へと、自分の認識や心の向きを転換することである。

ここであらためて注目すべきは、「『後悔して生活を改善する』という一連の行為そのものを意味する語ではない」ということだ。

もちろん、単に「悪いことをしてしまった」と後悔の念を抱くだけのことではない。

自分の歩んできた方向が神から離れていたことを認め、
そして、その方向を変えて神へと向き直る。まさに、方向転換なのである。

その前提に立ってみると、イエスとともに杭につけられた犯罪人のエピソードに合点がいく。

彼には、生活を改める時間がなかった。
償いをする時間も、善行を積む時間もなかった。

それでも彼は、
自分が受けている刑罰を認め、
イエスを正しい方として認め、
「イエスよ、あなたが王として来られるとき、私を思い出してください」と願った。

これは非常に小さな行為に見える。しかし、イエスはそれを拒まなかった。
彼は、自分の努力によって自分を立て直せてはいない。
ただ、自分自身の状態を認め、それまでとは違う方向へ向きを変え、イエスへと向き直ったのである。

ここに、救いについて考えるうえで非常に重要なことが詰まっているように思える。

このエピソードから、こう考察できないだろうか。
救いに必要な悔い改めとは「正しい生活を送ることで実証すること」までは求められていないのではないか?
悔い改めの本質は、「神の前で自分自身の状態を認め、方向を変え、神へと向き直ること」それ自体なのではないだろうか?

改めて考えたい。

神は、人間が神の前で何かを十分に積み上げたから救うのだろうか。
それとも、
神の側から差し出された救いを、人間が信頼して受け取ることが救いなのだろうか。

もちろん、神へと向き直ったなら、その後の生き方にも変化が生じる。
当然、これからは悪いことをしないよう努めるだろう。

しかし、それは、

「悔いる」+「正しい生き方」→「救い」

なのではない。むしろ、

「悔いる」→「救い」=「その後の生き方」

なのである。

救われるために生き方を変えるのではなく、神の愛によって救われたからこそ、心から生き方が変わっていく。

この違いは、神からの救いとは何か、そして神との関係を培っていくとは何かを考えるうえで、とても大きな違いなのではないだろうか。

②神のご意思を行う――「宣教をすること」は救いの必須条件なのか

救いに必要な行動について語るとき、よく引用される聖句がある。

イエスはこう言った。
「私に向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく、天におられる私の父のご意思を行う者が入るのです」
――マタイ7章21節

これは確かに重い言葉である。

「イエスを信じています」と口で言うだけで十分なのではない。神のご意思に従って生きようとすることは、クリスチャンにとって大切なことである。

では、ここでいう「神のご意思」とは、具体的に何を指しているのだろうか。

先ほどの続きの聖句は次のとおりである。

「その日、多くの者が私に言うでしょう。『主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力ある業を行ったではありませんか。』
その時、私は彼らにはっきり言います。『私はあなたたちを決して知らなかった。不法を行う者たちよ、私から離れなさい。』」
――マタイ7章22,23節

ここで興味深いのは、イエスに否認されている人々の言葉である。

あなたの名において預言し、悪霊を追い出し、強力な業を数多く行った」

彼らは、イエスの名を使ってさまざまな活動を行っていた。そして、おそらく自分たちは神のために熱心に働いている、と考えていたのだろう。

現代の私たちに当てはめて考えるなら、「神のために一生懸命活動している」「宗教活動に熱心に参加している」「人に教えを伝えている」――さしずめこんなところであろうか。

ところがイエスは、彼らにこう言う。「私は決してあなた方を知らない」

これは、非常に重要な点ではないだろうか。

本人は「神のためにしている」と思って一生懸命活動していても、それが必ずしもイエスから認められるとは限らないのである。
だとすれば、「これだけ宣教した」「こんなに宗教活動に参加した」だから、『神のご意思を行った』という自己評価が、はたして、神から見て「神のご意思を行っている」と誰が判断できるのだろうか。

それとも、イエスが言う「神のご意思」とは、もっと別のところにあるのだろうか。

ここで、もう一度あの犯罪人のところへ戻りたい。

もし、「天の王国に入る(救われる)ためには神のご意思を行わなければならない」という言葉を、「神が要求する一定の行動を生涯にわたって実行し続けること」と理解するなら、ここで大きな疑問が生じる。

彼には、それを行う時間がなかったからである。

宣教できなかった。
バプテスマを受けることもできなかった。
会衆生活を送ることもできなかった。
聖書研究を継続することもできなかった。

それでもイエスは、「あなたは……パラダイスにいるでしょう」と言った。
では、彼は何をしたのだろう。

しかし、彼が何もしなかったわけでもないのかもしれない。

彼は、イエスを見て、イエスがただの犯罪者として死んでいく者ではなく、王国を持つ方であることを認めた。そして、そのイエスに自分の未来を委ねた。

はたして、イエスが言う「父のご意思を行う」とは、具体的に何を指しているのだろうか。
ただ言えるのは、「その中には宣教奉仕が必ず含まれる」というわけではなさそうである。
――少なくとも私にはそう思える。
この問いは、今後の研究課題としたい。

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