救われるために、何をしなければならないのか 〔その②〕

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―イエスの最期、杭に掛けられた犯罪人と「パラダイス」の約束

信仰とは何なのか

ヘブライ11章1節には、こう書かれている。
「信仰(πίστις)とは、望んでいるものの確かな実体・保証であり、見えていない事柄についての確証である。」

まず、信仰とは「確かな実体・保証」とある。
「まだ見ていないから分からないけど…そうだったらいいなぁ」などという漠然としたものではない。
目には見えていなくても、すでにそれは実現しているがごとく確かなもなのである。

例えていうなら、空気は目に見えないが、私たちは、それが実際にあることを確信している。
この聖句によると、信仰とはそれに匹敵するほどの確信であると読み取れよう。

また、ヨハネ6章35節でイエスは、
「わたしのもとに来る者は決して飢えず、わたしを信じる者(πιστεύων)は決して渇くことがない。」と述べている。ここで注目したいのは、「私のもとに来る」ことと、「私を信じる」ことが並べて語られていることである。
「信じる」というのは、「イエスのもとに来ること」なのである。
つまるところ、イエスに自分自身を委ねることといえよう。

どうしたら、そのような「信仰」を持てるのだろうか。そのような状態になるためには、なにか“条件”が必要なのだろうか?

2 信仰を持つための必須条件はあるのか

先ほどのエピソードの続く箇所を読むと(〔その①〕を参照)、パウロとシラスは、牢番とその家の者に主の言葉を語り、その結果彼らはバプテスマを受け、神を信じる者となったことを喜んだと記録されている。

このことから、わたしは「信仰を持つためには、知識が必要である。」と説明されてきた。
だからこそ、パウロとシラスは牢番とその家族に主の言葉を語ったのだと。

誰かを信じるということには、その人を信頼し、自分を委ねるという状態という意味が含まれている。そのためには、その人のことを知る必要がある。それは当然である。
しかし、「イエスを信じるためには、どこまでの知識が必要なのだろうか。」

必要とされる知識の「量」「質」について改めて考えてみた。

①必要な知識――『』「十分な知識」は救いの必須条件なのか

しかし、兄弟たち、私はあなたがたに、私があなたがたに伝えた福音を知らせます。
あなたがたもそれを受け取り、その中に立っており、それによって救われています。
私があなたがたに伝えた言葉を、あなたがたがしっかり保っているなら
――ただし、あなたがたが無駄に信じたのでなければ。
というのも、私もまた受け取ったものを、まず第一にあなたがたに伝え渡したからです。
すなわち、キリストが私たちの罪のために、聖書に従って死んだこと、
そして葬られたこと、
そして聖書に従って第三の日に起こされたことです。
――コリント第一15章1-4節

わたしは長年、

「『イエスを信じる』ためには、イエスがどんなことを行ない、どんなことを教えたかをある程度理解していない限り、本当に『主イエスを信じ(る)』ことはできない。
その教えの中には、神の王国とは何か、クリスチャンがどのような生き方をするべきなのかなど、多くの事柄が含まれる。」

と理解してきた。まあ、そう教えられてきたので素直に受け入れてきた。
しかし、あらためて聖句を読んでみると、実際パウロたちがここで、どれだけの情報を語ったのかは具体的に書かれていない。

推測できることといえば、良い知らせ『福音』の基本的な内容は伝えたであろう。

福音の基本的な内容とは何か。
コリント第一15章3-4節で、パウロ自身が福音の中心をこのようにまとめている。

キリストが私たちの罪のために死んだこと
葬られたこと
三日目に復活したこと

このような、イエスの死と復活を含む福音の基本的な内容を伝えた可能性は非常に高いと思われる。
しかし、「多くの事柄」を語るほどの時間があったのだろうか?
このエピソードは、真夜中の出来事である。したがって、長時間細部に渡って語っていたとは考えにくいのではないだろうか。

ましてや、イエスの隣で杭に架けられた犯罪人は、イエスについてどれほどの知識を持っていただろうか。
イエスの教えを体系的に学んでいただろうか。
神の王国について、どこまで理解していただろうか。
贖いについて理解していただろうか。
イエスやその弟子たちから教えてもらう機会があっただろうか。

このとき彼はイエスに対する十分な知識を持っていたと言えるだろうか?
それでも彼はイエスに、「あなたの王国に入られるとき、私を思い出してください」と言った。

彼が持っていた思いは、十分な知識に基づくものではなかった。それでも彼は、「この人は、自分が今見ているような単なる犯罪者ではない。この人には王国があり、その王国を治める方なのだ」と確信し、そのイエスに自分自身を委ねることができていた。

②必要な知識――『質』「正確な知識」は救いの必須条件なのか

テモテ第一2章4節にはこのようにある。
「神は、すべての人々が救われ、そして真理の理解へと至ることを望んでいる。」
この聖句は、救いと「正確な知識」を結びつける根拠として用いられる。少なくとも私はそう教えられてきた。

確かに、神を知ることは重要である。イエスについて知ることも重要である。
しかし、「真理の理解に至ること」=「一定量の正しい知識を得ること」と考えてよいのだろうか。

そもそも聖書のある言葉を説明する際、様々な解釈がある。
ある解釈が「正確な知識」なのかどうか、どうやって保証できるのだろう。
人間の理解によって体系化された教理に過ぎない場合もあるのではないだろうか。
これは、どの宗派にも当てはまる問いである。

人間は聖書を理解する。そして教理を体系化する。しかし、人間の理解には限界がある。

実際、私が長年所属してきた教団でも、「聖書のこの言葉からすると、この理解が正しい」と教えられていた事柄が、後になって「理解が調整され」、変更されることが何度もあった。
そして、そのたびに私は心身ともに振り回されてきた。

では、かつて「正しい」と教えられていた理解と、現在「正しい」と教えられている理解の間で、救いの条件は変化したことになるのだろうか。

もし「正確な知識」が救いの必須条件だとするなら、
「どの時点の、どの知識が、救いに必要な「必須知識」なのか」
わたしは、まずそれを教えてほしいと思う。

聖書の知識の中でも重要なのは、神とイエスに関するものであろう。

しかし、イエスの隣で杭に架けられた犯罪人は、イエスについてどれほどの知識を持っていただろうか。
イエスがなぜ地上に来たのか、死んだ後イエスがどう行動されるのかなど、理解していただろうか?
イエスの弟子たちでさえ、この時点においては、イエスに対して、すぐにでもこの地上で王となってくださるという間違った期待を抱いていたのに。

繰り返しになるが、彼は、正確な知識を持ち合わせていたとは考えにくい。それでも彼は、「この人は、自分が今見ているような単なる犯罪者ではない。この人には王国があり、その王国を治める方なのだ」と確信し、そのイエスに自分自身を委ねることができていた。

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