はじまりの場所へ プロローグⅢ

プロローグ

プロローグ Ⅲ メシアを待ち望む民 ― 祭司制度とユダヤ教諸派の誕生

ユダヤ国民の歴史の中でも有名なのは、バビロン捕囚、すなわち、紀元前六世紀頃に新バビロニアの王ネブカドネザル二世によって、南ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンへ強制移住させられたことであろう。ユダヤ人の王政は終焉し、この出来事は、ユダヤ人の宗教や文化に大きな影響を与えた。

それから数十年後の西暦前五百三十七年、ユダヤ人たちは、バビロニア人を征服したペルシャの王キュロスによって、故国パレスチナの地に帰還することができた。とはいえ、もはやダビデの王統に属する王を立てることは許されず、ペルシャの王から任命された総督の支配を受けることとなった。

その最初の総督はゼルバベルであった。彼は総督という立場にあったが、興味深いことにダビデ王家の血を引く人物でもあった。彼の祖父は、ユダヤ王国が陥落する数年前に王位に就き、わずか三か月でバビロンへと連れ去られたエホヤキン(エコニヤ)だったからである。

パレスチナに帰還したユダヤ人たちを待っていたのは、七十年ものあいだ荒れ果てたままの神殿であった。物資も人手も乏しい中、彼らは妨害や失望に直面しながら、それでも真の崇拝を回復するために再建の労に取り組んだ。その苦難に満ちた歩みは、エズラ記やエレミヤ記などの書からうかがい知ることができる。

足掛け二十年ほどかけて再建された神殿はソロモンの神殿の輝かしさにはとうてい及びもしないものであったが、西暦前五百十五年から西暦一世紀の末まで、ほぼ五百年間持ちこたえ、ソロモンの神殿よりも長く存続した。

神殿完成後の時代については、律法教師エズラやユダの総督ネヘミヤによる記録、さらに預言者マラキの書などが伝えられている。マラキ書の成立はユダヤ人が帰還してから百年ほど経った紀元前五世紀半ば頃であり、この書がヘブライ語聖書の巻末に置かれている。

その後、イエス・キリストの到来に至るまで正典が書き加えられることはなく、この四百年余りの期間については他の歴史資料によって知られることになる。

さて、バビロンから帰還したユダヤ国民は二百年ほどの間、ペルシャの支配下に置かれることとなったわけであるが、時の世界強国ペルシャ政府は、宗教に対しては非常に寛容であった。自治権が剥奪された彼らには、もはやかつてのような王はなかったが、それに取って代わるかのように、大祭司が国家の頭とみなされるようになっていた。ユダヤ国内においては、大祭司の宗教的権威が、いつしか政治的にも権威を高めることとなったのである。

神の民を取り巻く情勢は、やがて新たな世界強国の出現によって大きく変化する。その強国とは、ギリシャである。

紀元前三百三十六年から三百二十三年にかけて、ギリシャから出征したアレクサンドロス大王は、瞬く間に東方へと進軍し、はるかインドに至るまで広大な領土を征服した。

その中にはペルシャ王国も含まれており、ペルシャの支配下にあったエルサレムも、紀元前三百三十二年に彼の支配下に置かれることとなった。この結果、ギリシャ語や文化を基盤とするヘレニズム文化が広く浸透し、ユダヤ人の社会や信仰にも無視できない影響を与える時代が始まったのである。

アレクサンドロスの死後も、ユダヤ人の住むパレスチナは引き続きギリシャの支配下に置かれ、ヘレニズムの影響は次第に強まっていった。

その中で、一部のユダヤ人貴族は、伝統的なユダヤ人の習慣や律法を時代遅れのものとみなすようになった。

特にその影響を強く受けたのは、意外にも祭司たちであった。宗教的指導者であると同時に政治的権威を担っていた彼らは、ユダヤ教を時代に適応させることを自らの責務と考え、ヘレニズム文化を受け入れることを不可避なものとして捉えていたのである。

そうしたユダヤ人の一人が、ヤソン(ヘブライ語名ヨシュア)である。彼は当時の大祭司オニアス三世の弟であったが、自らの政策を推し進めるため、何としても大祭司の地位を手に入れようと画策していた。

それまでギリシャ系の支配者たちは、ユダヤ人の大祭司職にほとんど関心を示さず、干渉することもなかった。しかしヤソンは、セレウコス朝の王アンティオコス・エピファネスが軍事行動のための資金を必要としている点に目をつけた。

紀元前百七十五年、オニアス三世がアンティオキアに滞在していた隙を突き、ヤソンはギリシャ人当局者に賄賂を持ちかけた。ヘレニズム化を積極的に進める指導者の登場は当局にとっても好都合であり、この取引は受け入れられた。こうしてオニアス三世は解任され、やがて処刑され、代わってヤソンが大祭司に任命されたのである。

こうして大祭司の職は異国の支配下に置かれ、その支配者たちが意のままに任命や解任を行うものとなってしまった。本来、イスラエルの大祭司職は、神によって任命されたアロンに始まり、父から子へと受け継がれていく神聖な職であったはずであったものが。

さて、大祭司を取り込むことで支配力を高めようとしたセレウコス朝の王アンティオコスであったが、やがて彼は、ユダヤ人に宗教的自由を認めたこと自体が政治的な誤りであったと考えるようになった。王国を一つにまとめるためには、信仰を共通のものにする必要があると判断し、ユダヤ人を強制的に同化させようとしたのである。

紀元前百六十八年から百六十七年にかけて、神殿は略奪され、ユダヤ教の慣習は次々に禁止された。割礼は死刑に値する罪とされ、安息日を守ることも同様に処罰の対象となった。その結果、ユダヤ人は激しい迫害と大量虐殺にさらされることになった。

そして紀元前百六十七年十二月、事態は決定的な段階を迎える。アンティオコスの命令により、神殿の敷地内にゼウスの祭壇が建てられ、ユダヤ人には豚肉をギリシャの神にささげるよう強要された。豚は、ユダヤ人の律法において汚れたものとされており、これは信仰に対する最大の冒涜であった。

この頃、「ハシディーム」――すなわち「敬虔な者たち」と呼ばれる新たな人々の集まりが現れた。彼らはモーセの律法をより厳格に守ることを重んじ、ヘレニズム文化に強く反対していた。多くのユダヤ人がすでにヘレニズムを受け入れていたが、神殿冒涜と迫害が進むにつれ、ヘレニズム化した頼りない祭司たちに失望し、一般の人々の間でハシディームへの支持が高まっていった。

こうした状況の中、マカベア家(またはハスモン家)と呼ばれる祭司マッタティアスと、その五人の息子たちが立ち上がった。マッタティアスは「律法を熱心に守る者は皆、わたしに従え」と叫び、反乱を開始したのである。

その行動のうわさが広がると、多くのユダヤ人――ハシディームの人々を含め――が彼らに合流した。この反乱は当初、信仰を守るための宗教的抵抗であったが、次第にユダヤ人の民族的自立を求める政治闘争へと発展していった。

やがて年老いたマッタティアスが亡くなると、息子のユダ・マカバイが指導者となり、ついにアンティオコスの軍勢を打ち破った。

その二年後の紀元前百六十五年、神殿は奪回され、再び奉献された。この出来事は、今日に至るまで「ハヌッカ」と呼ばれる八日間の燈火の祭りとして、世界中のユダヤ人によって記念されている。

さて、このころすでに祭司たちは民に対する霊的かつ社会的な指導権を握っていたことは先に述べたとおりである。本来彼らは、律法を教え、裁きを行う責務を神から委ねられていた。しかし、現実には、政治的・経済的にエルサレムで最も有力かつ富裕な階層を形成し、その貴族化が進んでいた。その結果、民を導く牧者としての役割は次第におろそかにされていった。

こうした状況は、律法の教授や裁判といった本来祭司が担うべき働きが、祭司以外の人々によって行われるようになることを助長した。つまり祭司に取って代わる新たな仕組みが形づくられつつあったのである。

こうしてユダヤ社会の内部では、信仰理解や律法の捉え方の違いから、いくつものグループが形成され、次第に様々な派へと分かれていった。

その中でも代表的なのがパリサイ派である。彼らはマカベア戦争期に現れたハシディーム(敬虔派)の流れをくむ人々から発展したと考えられている。

彼らは祭司団に対する不信の念から、一般の人も自らを祭司と同様に聖なる者とみなせると主張し、その根拠を「伝承」という形で定めるようになった。

モーセの律法によれば、宗教上の主要な権威と教育は、アロンの子孫である祭司たちに委ねられていた。したがって、本来であれば、祭司でない者が律法を教え、解釈の権威を持つことは認められていなかったはずである。

ところが彼らは自分たちの見解を正当化するために、すでに存在していた口頭伝承を集め、聖書の言葉の背後にある意味を読み取るための新たな解釈方法を用いるようになった。こうして彼らは独自の伝承と解釈体系を築いていったのである。つまり彼らは、神は文字と口頭により二重の律法をイスラエルにお与えになったと主張し、よって、口伝律法も成文律法と同様に権威と拘束性があるとし、自分たちは律法学者として祭司に代わって律法の解釈や裁判を行えるとしていた。

もう一つの主要な派はサドカイ派である。彼らは主に裕福な上流階級の人々から成り、実に、祭司のほとんどはサドカイ派に属していた。

彼らは、パリサイ派の主張する口頭の律法の存在を否定し、成文の律法のみを権威あるものとしていた。また、大祭司職は本来、祭司ザドクの家系に属する者が継ぐべきだと主張していた。

サドカイ派の主な信条としては、霊魂不滅や死者の復活、天使の存在を認めないこと。また、運命の作用を否定しており、人の身に起こる出来事はすべて当人の行動の結果であると考え、パリサイ人の信条も退けていた。

これらに加えて、エッセネ派と呼ばれるグループもあった。この派も同じ時期に形成されたと考えられている。彼らは公式の祭司職を退け、神殿での礼拝や犠牲に参加することを拒んだが、律法そのものにはきわめて厳格に従っていた。
エッセネ派は共同生活を営み、財産を共有し、厳しい規律のもとで禁欲的な生活を送っていたと伝えられている。また、魂の存続や終末的な救いを重視するなど、その信条には当時広まっていたギリシャ思想と共通する要素も見られる。
世俗社会から距離を置いていた点で他の宗派とは異なるが、律法の厳格な解釈や敬虔さという面では、パリサイ派と共通点も多いとされている。

その後時代が進んで西暦前三十七年ごろになるとヘロデ一族による支配を推し進める愛国的な派であるヘロデ党というものが生じた。ユダヤ教の中では少数派の部類であったとはいえ、多くの祭司がこの派に心を向けていたと言われている。

これらが、西暦一世紀に至るまでに存在したユダヤ教の主な派と言える。

とはいえ、こうした派の形成は指導者層を主体とした動きであり、一般民衆の多くは、特定の派に属していたわけではなかったようである。

事実、一世紀当時、これらの各派に属していた人々は、社会全体から見れば少数であった。パリサイ派は約六千人、エッセネ派は成人男性だけで四千人ほどとされている。サドカイ派については正確な人数は分かっていないが、主として裕福な支配層や祭司階級に限られていたため、その数は比較的少なかったと見られる。また、ヘロデ党派も少数派であった。そのため、これらすべてを合わせても、当時のユダヤ人全体の中で占める割合は、七%に満たなかったと考えられている。

いずれの派にしても一般民衆のことは置き去り状態であった。

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