第10話|イエスの誕生【はじまりに還る路】

小説

第一章 メシアの誕生

第二節 西暦前二年

第二項 秋

1.イエスの誕生

時は西暦前二年、季節は秋、ユダヤ暦ティシュリの月の上旬ごろである。さて、そのころ時のローマ皇帝カエサル・アウグスツスは、帝国全土に住民登録を命じた。人口を把握し、課税や統治を円滑にするためである。この調査は、皇帝の命令のもと帝国の行政機構を通して地方にも及び、度々実施された。当時のシリアの総督はクレニオという人物で、彼が総督のときに、少なくとも二回は行っているが、今回はその最初のものである。※脚注

ひとたびこの命令が出ると、人々は登録のためにそれぞれ自分の町へ向かわざるを得ない。
家を空け、仕事を中断し、家族を伴う者も少なくなかった。老いた者や幼い子を連れて、長い道のりを旅する者もいた。かなりの負担であるが、帝国の命令は重く、誰も逆らうことはできないのである。

ヨセフも、ナザレの町を出て、ベツレヘムと呼ばれる町を目指した。ヨセフが目指すベツレヘムはユダヤ地方の南にあるベツレヘム・エフラタで、ダビデの町とも呼ばれている。そこは、かつてダビデ王が生まれた町であり、ヨセフはダビデの家系に属していたからである。

ナザレからベツレヘム・エフラタまでの直線距離は約百十キロだが、実際には、起伏の多いサマリア地方を通る道のりで、百五十キロにもなったかもしれない。徒歩で四、五日かかる大変な旅である。
この旅に、ヨセフは約束通り結婚して一緒にいるマリアを連れていくことにした。身重のマリアに長旅をさせることに、一抹の不安はある。しかも、マリアの生む子は神から託された子である。いや、だからこそ、連れていくべきなのではないか。

預言者ミカの言葉によるとメシアが「ベツレヘム・エフラタ」から出ると特定されている。
マリアの出産の時期に登録の命令が出たというのは神意によるとヨセフは確信していた。

ティシュリの月は、ユダヤ人の三大祭りの一つ「仮庵の祭り」が行われる月である。
三大祭りは次の三つである。
まず春、ニサンの月には十四日に「過越の祭り」、十五日から二十一日まで「無酵母パンの祭り」が続く。
次に初夏、シワンの月六日には「七週の祭り(ペンテコステ)」が行われる。
そして秋、ティシュリの月十五日から二十二日まで「仮庵の祭り」が祝われる。
これら三大祭りの際には、ユダヤ人の男子はエルサレムへ上ることが求められていた。

そのようなわけで、ちょうどヨセフたちがユダヤに向かうころ、仮小屋の祭りのためにエルサレムへ上る人々で街道は大変な賑わいであった。歌声や家族連れの笑い声が道にあふれ、都へ向かう巡礼の列は途切れることがない。

ナザレに近づくにつれ、「もう少しだ」とマリアを励ましながらも、ヨセフは内心焦っていた。マリアの歩みは日ごとに重くなり、時折立ち止まっては息を整えなければならなかった。起伏のある道を、休み休み進むしかない。彼女の顔色をうかがいながら、歩調を合わせ、無理をせず足を止める――そうしているうちに、町はすでに人であふれていたのである。
もっと早く着けたなら、とヨセフは何度も思ったに違いない。だが、身重のマリアを急がせることはできなかった。
当然、エルサレム周辺の宿はどこも満室であった。エルサレム市内から約九キロメートル離れたところに位置するここベツレヘムにおいても二人が泊まれる部屋がどこにもなかった。夜が近づくにつれ、宿の戸口は次々と閉ざされていく。どの家にも余裕はない。戸を叩いては断られ、また次の戸へ――その繰り返しであった。

そんな中、マリアに陣痛が始まった。もうこれ以上、宿を探して歩くことはできなかった。ようやく身を寄せられたのは、家畜をつなぐ粗末な場所だった。石の壁に囲まれ、藁の匂いと家畜の息づかいが満ちる暗がり――そこしか、彼らには残されていなかった。

マリアはそこで男の子、初めての子を産んだ。布の帯でくるみ、他に寝かせる場所がなかったため、飼い葉桶にそっと横たえた。
ヨセフはマリアが子を産むまでは彼女と関係を持たなかった。今、目の前にいる赤子は、まぎれもなく聖霊によって宿った子である。ヨセフは天使に告げられた通り、その子をイエスと名付けた。

さて、この晩、同じ地域で、羊飼いたちが羊の群れの番をしていた。穏やかに流れる夜間の風が心地良い。
ティシュリの月は現代の暦でいうと、九月~十月ごろで、ちょうど夏が終わり、過ごしやすい季節である。あと半月ほどすれば、本格的な雨季となり数カ月間続く。現代の暦でいう十二月にもなると、ここベツレヘムでも、しばしば夜間に霜が降り、とても羊を放牧することなどできない。今は羊たちにとっても冬籠り前の貴重な季節だ。

突然、主〈κύριος〉の天使が羊飼いたちの前に立ち、主〈κύριος〉の栄光が彼らを取り囲んで照らした。羊飼いたちはとても恐ろしくなった。しかし天使は言った。

「恐れることはありません。聞きなさい。私は民の全てにとって大きな喜びとなる良い知らせを告げます。今日、ダビデの町で、あなた方の救い主が生まれました。その方はメシア〈מָשִׁיחַ〉、主〈κύριος〉です。そして、これがあなた方へのしるしです。あなた方は、布に包まれ、飼い葉桶の中に横たえられている乳飲み子を見つけるでしょう。」

そして突然、その天使と共に、天の軍勢の多数が現れた。彼らはその神〈τὸν θεόν〉を賛美し、そして言っていた。
「栄光が、いと高き所において神〈θεός〉に。そして地上では、神の恵みに属する人々に平和がありますように。」

天使たちが天に去っていってから、羊飼いたちは互いにこう言いだした。「さあ、ベツレヘムまで行こう。そして、この起こった出来事――その主〈κύριος〉が私たちに知らせたこと――を見よう。」

羊飼いたちは息を切らしながら町へ駆け込んだ。「ここだ……天使が言っていたとおりだ、飼い葉桶に赤子が!」
突然現れた来客にマリアとヨセフは戸惑った。
「本当に……本当にこの子だ。」一人が震える声で言った。
「俺たち、野にいたのです。すると突然、天使が現れて――」
「『恐れるな。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった』と!」
「そして、天の大軍が神を賛美して……!」
集まった人々は顔を見合わせた。「そんなことが……」「救い主が、この子だと?」ざわめきの中に、畏れと驚きが広がっていく。

だがマリアは、何も言わなかった。赤ん坊を見つめながら、そっと胸に手を当てる。
数か月前にガブリエルから告げた言葉・・・羊飼いたちの言葉・・・今目の前に眠る小さな命。マリアはその一つ一つを心の中で静かに重ね合わせ、深く思い巡らしていた。
(すべてが、つながっている……)

やがて羊飼いたちは顔を上げた。「間違いありません。天使が告げたとおりでした。」「神に栄光がありますように!」彼らは何度も振り返りながら外へ出て行った。
夜風の中、声が響く。
「聞いてくれ! 救い主がお生まれになった!」
「ダビデの町に、キリストが!」
道ですれ違う人ごとに、彼らは語った。胸にあふれる喜びを抑えきれないまま。
その背を見送りながら、マリアは静かに幼子を抱き寄せた。闇の中で、ただその小さな寝息だけが、確かな現実として響いていた。

夜が更け、静けさが戻ったころ。ヨセフは戸口の外に出て、ベツレヘムの灯を見渡していた。
「ナザレへ戻るのは……簡単ではないな。」低くつぶやく。
背後からマリアの声がした。「まだ体も十分ではありませんし……。」
ヨセフはうなずいた。「それに、一か月後には清めのために神殿でささげものをしなければならない。ここならエルサレムはすぐだ。ナザレへ戻って、また来るよりもここにとどまった方がよいかもしれない。」
マリアは幼子を抱きながら、静かに言った。
「天使は、この子がダビデの王座を与えられると告げました。王として、永遠に治める、と。」
ヨセフは遠く、町の上に広がる夜空を見上げた。
「ここは、ダビデの町だ……。」ヨセフは逡巡した。
「神が何をなさろうとしておられるのか、ここで待つべきなのかもしれない。」
マリアはそっと答える。「主が、次の道を示してくださいます。」

八日目。近しい者たちが集まり、幼子に割礼が施された。

「名は、どうするのですか。」
ヨセフは迷いなく答えた。「イエスと名付けました。」
マリアも静かに続ける。「私が身ごもる前に、天使が告げた名です。」

幼子は穏やかに眠っていた。

――イエス。神は救い。
その名は、まだ小さな体には不釣り合いなほど大きな意味を宿していた。

挿絵・ビジュアル制作には、ChatGPT および Google Gemini を使用しています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました